結婚と引退を決めた百恵は、デビュー前から世話になった池田のもとへ挨拶に訪れた。80年10月12日に放映された「スタ誕」は、通常の審査ではなく、丸ごと百恵の引退特集にあてていた。池田は、百恵の報告にこう応えている。
「わかった。ただし、絶対に別れるなよ。それに再デビューも絶対にするなよ」
百恵も固い意志であったことは、一度たりともカムバックに色気を見せていないことで明らかである。
やがて淳子も92年の結婚と同時に芸能界から距離を置く。ただし、百恵と違って多くの批判のままに「距離を置かざるを得ない」という形だった。そのため美佐子は池田に対し、何度も念を押した。
「あなたのところへマスコミが意見を聞きに来るだろうけど、絶対に何もしゃべっちゃダメよ。彼女のことを悪く言わないように」
美佐子にとっても淳子は、デビュー直後から娘のように思う存在だった。
その関係は淳子の結婚後も変わらず、子供が産まれるたび池田のもとへ写真を送ってきた。
やがて池田は03年1月23日に心不全で逝去する。当時の淳子は夫の母の世話をするため、兵庫県西宮市に住んでいた。それでも池田の訃報にはすぐに上京し、遺体とも向き合っている。04年に淳子が一家で世田谷に転居すると、美佐子との交流はさらに深まっていった。
「一度、どこかの制作プロダクションが『300万円出すから、彼女をテレビで使いたい』って言ってきたのね。そのことを淳子に伝えると、あっさり『出ないわ』だったのね」
それから、美佐子は少しずつ淳子の心境の変化を感じた。筆マメな淳子からは手紙がたびたび届くが、差出人の名が現在の姓ではなく「桜田淳子」であることも何度かあった。
06年に淳子が沈黙を破ってエッセイ集「アイスルジュンバン」を出すと、美佐子はすぐに連絡した。
「これはちっともおもしろくない。もっと深く書いたら?」
本は子育てや近所づきあいのことがほとんどで、合同結婚式や芸能界に関しては触れていない。淳子は美佐子の意見に理解はしめしながらも、核心を書けばいろいろと追及されるし、夫や子供たちにも迷惑がかかるだろうと答えた。
「何年か前に明治記念館で淳子主催のパーティがあったのね。私は、淳子はカムバックを決意したと思った。ちょうど『千の風になって』がヒットしていたので、私は挨拶で『亡き主人が風に乗り、淳子、淳子って呼びかけている』って言ったのね。再デビューは最初のデビューよりも難しいから、やるならば、いろんな面をきれいにしなければダメよって」
あれは一瞬の気まぐれだったのだろうか‥‥。ここ最近の淳子は「ランチのメニューや特売セールに夢中」な主婦の顔に戻っている。それとも、一片のくもりもないタイミングを期しているのだろうか──。