1997年に開催された第69回の春の選抜。この大会では春夏の甲子園において新たな歴史が刻まれることとなった。和歌山県立日高高校中津分校の出場により、高校野球史上初となる分校の甲子園出場が決まったのである。
この日高中津分校は、学校自体は1949年に開校していたが、過疎化に悩む村を活性化させようとする狙いもあり、84年に硬式野球部が発足。卒業者に垣内哲也(元・西武など)を輩出するなど、少しずつ力を付けていった。そしてついに96年秋の近畿大会でベスト8に進出。この実績が評価され、創部13年目で初の甲子園出場となったのである。
注目の初戦は当時すでに夏6回、春4回の優勝を成し遂げていた古豪・中京大中京(愛知)と決まった。この強豪相手に日高中津はエース・北山信賢が好投し、5回まで相手打線を無安打に抑え込む。打線も北山を援護し、4番・板尻拓美が4回表、6回表の2度のチャンスの場面でそれぞれ適時打を放つなど3点を先制、試合を優位に進めていた。
だが、中京大中京はまったくあわてていなかった。北山の投球を見極めた6回裏に一気に襲いかかったのである。この回、先頭の8番・寺田がど真ん中の直球を右翼線へと運び二塁打。その後2死となったが、そこから3連続四球を選んでまず押し出しの1点。続くチャンスで5番・藤村が左前へ同点の2点適時打を放ち、最後は6番・辻田が右翼の左へ直球を流し打って2得点。一挙5点を挙げて逆転に成功したのである。中京大中京は8回裏にも1点を追加。試合を決めたのであった。
結果的に日高中津は3‐6で惜敗。放ったヒットは中京大中京の5本に対し、7本と上回っていた。さらにエース・北山の配球に合わせて絶妙に守備位置を変えるなど緻密さも備えていたが、最後は名門の底力の前に屈したのであった。
出場が決まった2月1日以降、同校がある中津村(現・日高川町)は連日のように喜びで沸いていたが、甲子園初勝利という形でその一大フィーバーを締めくくることは残念ながら叶わなかった。それでも元村民や全国7校の分校仲間ら約6000人で埋まった日高中津のアルプススタンドは温かい声援を最後まで送り続けたのである。
一方、この大会最大の話題校に逆転勝ちを収めた中京大中京はその勢いに乗って66年に春夏連覇して以来、31年ぶりに甲子園の決勝戦へと進出。天理(奈良)に1‐4で敗れたものの、見事準優勝を飾っている。そして同校が勝ち進む中で最も苦戦したのがこの初戦だった。もし、日高中津が勝利していたら、まさかの決勝戦進出がありえたのかもしれない。
(高校野球評論家・上杉純也)=文中敬称略=