80年代のマラソンヒーローがクローズアップされている。
「死者が出るかもしれない」──。海外メディアが東京五輪における最大の懸念材料としているのが、「暑さ対策」。特にマラソン競技に関しては深刻で、英タイムズ紙は「死者が出る可能性」まで報じていた。
東京五輪組織委員会も、対策は何度も講じてきた。マラソンのスタート時間が午前7時に決まったが、それまで二転三転した。午前6時スタート案、同5時案、競技会場の東北移転案も出ていた。そして今も、海外メディア、参加選手らを安心させるまでには至っていない。
「五輪組織委員会、日本陸上連盟は7時スタートで猛暑対策は終わったとは見ていません。今後も対策を講じていくつもりですが、なかなか良い案がなくて」(体育協会詰め記者)
対策を講じる側の矛盾を指摘する声も出始めた。DeNAランニングクラブ総監督の瀬古利彦氏が現役だった1980年代、こんなことがあった。瀬古がローマシティマラソン大会に出場しようとしたら、陸連は「待った」を掛けている。というのは、3月のイタリアは気温が15度以上になるため、「暑いから適さない」としていたのだ。ところが、今危惧されているのは東京五輪での「30度の炎天下」。それだけに、
「炎天下を避ける意味で早朝スタートが検討されました。ただ、80年代のマラソン選手は暑さにも強かったんです。経験に基づく選手個々の対策みたいなものもあったんだと思いますが」(前出・体協詰め記者)
瀬古はレース途中、前後に振っていた腕をダランと下げて、またそこからランニングフォームを整え直すこともしていた。ちなみに80年代のランナーは給水所でスポンジも取り、首筋も冷やすなどしていたが、こうした走法が80年代のランナーを暑さに強くさせていたとは考えにくい。
東京五輪の暑さ対策は万全ではない。直前まで対策を講じていくことになりそうだ。
(スポーツライター・飯山満)