名門の芸能プロダクションとして知られる石原プロは、63年1月に裕次郎が設立。映画「黒部の太陽」(日活)やドラマ「西部警察」(テレビ朝日系)など骨太のヒット作を手がけてきた。
87年に裕次郎が亡くなったあと、渡が社長に就任。舘や神田といった所属俳優は結束の固さから「石原軍団」と呼ばれ、その名をはせてきた。
09年には裕次郎の二十三回忌法要イベントが国立競技場で盛大に行われ、全国から約12万人のファンが訪れたのだが‥‥。
「この頃、事務所の屋台骨を支える3人は単発ドラマが中心で、このままでは事業を縮小するのではないかと言われていました」(テレビ局関係者)
そのやさき、石原プロがスポーツ紙記者を集めたのは、11年5月のこと。渡が社長の座を辞任し、取締役だった舘と神田も役員を辞めて、経営権は裕次郎の未亡人・まき子さんに任せることを発表したのだ。
「今後は役者業に専念するということでしたが、その裏では、事務所内での確執が引き金になっていたんです」(芸能プロ関係者)
それまで石原プロは、「コマサ」のあだ名で知られる小林正彦専務(故人)が番頭として陣頭指揮をとっていた。
「70年代前半には約10億円の負債を抱えていましたが、小林さんの集金力や営業力で立て直しました」(芸能プロ関係者)
そうした功績が評価される一方で、小林氏にある女の影がチラつき出してから、事務所の様子がおかしくなったという。
「テレビ朝日で石原プロを担当する女性プロデューサーで、小林さんとは特に親しい仲だったんです。それだけなら問題はないのですが、だんだん石原プロに入り浸って介入するようになり、気に入らない社員がいると、小林さんに告げ口をして辞めさせたりしていました」(芸能プロ関係者)
小林氏の後ろ盾をいいことにやりたい放題の女帝に、事務所スタッフの不満が高まっていく。また、渡と小林氏の間でも、ある出来事がきっかけであつれきを生じることになったのだ。
「07年に放送された『新春ドラマスペシャル・マグロ』(テレビ朝日系)で青森県大間を舞台にした漁師の役など、この時期は立て続けにドラマ撮影が重なっていたんです。あまりにハードなスケジュールで、体調を崩していた渡を見かねた社員が『このままじゃ渡さんの体が危ないですよ』と小林さんに訴えたら、『それなら死んでから考えよう』と言い放ったんです。それが渡さんの耳に入って‥‥」(芸能プロ関係者)
両者の亀裂は決定的となり、女帝を追い出す名目もあって、渡らは11年の取締役会で辞任。社員25人も退職してもらい、退職金を支払ったあとに再雇用して、小林氏だけが会社を去る形となった。
新体制で出発した石原プロに再び衝撃が走ったのは、17年4月のことだ。それまで石原プロの常務取締役を務めていた人物が、渡との確執でクビを切られたとして、一部週刊誌が石原プロの内情を暴露、批判を繰り返したのである。
「渡さんはアキレた顔を見せるだけで、特に相手にしなかった」(石原プロ関係者)
渡は同時期に「相談取締役」として経営陣に復帰すると、リハビリをしながら今後は石原プロのために尽力する道を選んだという。