「石原軍団」の異名で知られる石原プロモーションが、来年1月16日をもって幕を閉じる。ボス・石原裕次郎から始まって、代貸・渡哲也へとバトンがつながれて58年。男たちが刻みつけた武勇伝をあらためて振り返ろう。
石原プロモーションは1963年、当時日活に所属していた石原裕次郎(享年52)が個人事務所として設立した。そこへ裕次郎を敬愛する渡哲也(78)や、その渡を兄のように慕う舘ひろし(70)が加入して、いわゆる「石原軍団」が形づくられていく。それだけに「ボス」である裕次郎が病に倒れ、そしてこの世を去ったことは大きな衝撃となった。芸能レポーター・石川敏男氏が振り返る。
「石原プロは文字どおり、裕次郎さんを慕う男たちの集団だった。渡さんはもちろん、日活時代からのスタッフで実務面を取りしきっていた“コマサ”こと小林正彦専務(享年80)もそう。また、当初は現場の裏方さんも日活出身が多かった。だからこそボスが亡くなった時、その存在意義を問われることになったんです」
当初、代貸である渡は裕次郎亡きあとの石原プロの存続に否定的だったというが、
「結局、まき子未亡人や残されたスタッフのために石原プロを存続させることを決断した」(石川氏)という。まさに、苦渋の末の男の決断だったというわけだ。ともあれ軍団の存続を左右したボスの死は芸能界のみならず、日本全国に喪失感をもたらし、さまざまな物語を残した。石川氏が続ける。
「解離性大動脈瘤、肝臓癌と危機が続いたあと、小康状態を保ってハワイで静養していた86年のことです。静養先に勝新太郎さんが見舞いに訪れた。その時、裕次郎さんが静養するコテージの垣根にタバコを忍ばせたというんです。タバコを持っていくとまき子夫人に怒られるので、その直前にね。それでしばし見舞ったあと、裕次郎さんを散歩と称して室外に連れ出し、タバコを吸わせてあげたとか。勝さんは『(裕次郎に)タバコを吸わせてやったよ』とうれしそうに話していました」
ひたすら夫の体調を気遣うまき子夫人にすればシャレじゃすまないが、いかにも昭和の大スター同士という話ではないか。ましてや、対外的には裕次郎の病が不治であることは知らされておらず、本人にも告知されていなかったのだから‥‥。
結局、裕次郎はハワイ静養からおよそ1年後の87年7月17日、入院先の慶応義塾大学病院にてその命に幕を降ろす。ボスが倒れるという一大事、そして勝新との常識外のエピソードは、その大転換期に起きた事件であった。