野球というスポーツの面白さ怖さを語る際によく使われる「あの一球が」という文言。この試合は、まさにたった1球で天国から地獄へ、地獄から天国へと両チームの立場が変わった典型的な試合である。
2013年、第95回夏の選手権準々決勝。初出場ながら前橋育英(群馬)は2年生右腕・高橋光成(埼玉西武)が脅威のピッチングを展開し、ベスト8まで駒を進めてきた。初戦の岩国商(山口)戦と2回戦の樟南(鹿児島)戦はともに1‐0の完封勝利。3回戦の強豪・横浜(神奈川)戦も失点1ながら自責点0で7‐1と快勝した。
この間、初戦では夏の甲子園史上歴代2位となる9連続三振をマーク(最終的には13奪三振)するなど、若きエースは聖地のマウンドで躍動し、チームを初出場ながらベスト8にまで導いたのであった。そして、この準々決勝で名門・常総学院(茨城)との“北関東対決”となったのだ。
この試合、前橋育英ベンチはエース・高橋の連投を避け、同学年でこれも好投手の喜多川省吾を先発のマウンドに送った。だが、緊張のせいか初回から自慢の制球が定まらず、2回表にエラーと四球で2死一、三塁のピンチを招くと1番・高島翔太に初球の甘く浮いた真ん中高め直球を痛打される。打球は左中間を破る適時二塁打となり、早くも2点の先制を許してしまった。前橋育英がこの大会、初めて許した先制点である。
初出場のチームだけに続けざまに大量失点する可能性があったが、ここから先発の喜多川が粘投。直球とスローカーブを交えた緩急ある投球が冴え、強打の常総打線に5回までで被安打3、2失点に抑えていく。こうなると打線が援護したいところだったが、常総のエース・飯田晴海が投げ込む切れ味鋭い変化球に、完全にお手上げ状態となっていた。
これ以上の失点は許されない前橋育英ベンチは6回からついにエース・高橋の投入に踏み切る。するとこの高橋が渾身の投球を見せる。8回表には2死満塁のピンチを迎え、打席には相手エースの8番・飯田。3ボール2ストライクというしびれる場面を迎えたが、ここでこの日最速となる145キロの直球で見事に見逃し三振に仕留めたのだ。続く9回表には圧巻の3三振。だが、打線は相変わらず、飯田の前に沈黙したまま。残された攻撃は9回裏の1イニングだけと完全に追い込まれていた。
ところがこの最終回、イニングに入る前の投球練習時に飯田に異変が起こった。熱中症による脱水症状を引き起こしてしまったのである。一度ベンチに下がって治療を受け、ふたたびマウンドへ。先頭打者に1球投げたものの、症状が治まることはなかった。この緊急事態に常総ベンチは2年生右腕の金子雄太を緊急投入。その金子も急きょマウンドに上がったとは思えないほど落ち着いた投球を見せ、簡単に2人の打者を打ち取る。前橋育英はいよいよあと1人というところまで追いつめられるのである。
ここで5番・小川駿輝の打球もあっけなく相手二塁手正面に転がっていく。「終わった」と誰もが思った。先発して2点を失った2年生投手の喜多川は責任を感じてその打球の行方を見ることができず、下を向いていたという。だが、次の瞬間だった。なんと打球が常総二塁手・進藤逸の手前でイレギュラーし、小川が一塁に生きたのである。これで息を吹き返した前橋育英は続く6番・板垣文哉も低めの変化球を右翼線に運び、二塁打。2死ながら二、三塁と一打同点の場面を作る。そしてこのチャンスで打席には6回からリリーフ登板していた高橋が向かった。その2球目。外角の変化球を捕らえると打球は右中間へ。土壇場で追いつく起死回生の同点適時三塁打が飛び出したのである。
こうなると試合の流れは完全に前橋育英へと傾く。延長戦に突入した10回裏、四球と安打などで1死二、三塁と一打サヨナラの舞台を整えると3番・土谷恵介が初球のチェンジアップを振り抜き、センター前へ。結末は3‐2の劇的サヨナラ勝ちであった。
こうして奇跡的な勝利をもぎとった前橋育英は続く準決勝、決勝戦にも勝利し、みごと夏の甲子園初出場初優勝を成し遂げる。その快挙を陰でアシストしたのは、たった1球の白球の行方だったのだ。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=