80年代に公開され、以後全6シリーズが製作されたヒット映画「ビー・バップ・ハイスクール」。清水宏次朗演じる“ヒロシ”と仲村トオル演じる“トオル”の名コンビが大暴れする痛快アクションだ。一連の作品を手がけたのが監督・那須博之と脚本・那須真知子。夫婦であり、映画界きっての名コンビとして知られる2人だったが、8年前に那須監督が他界。監督との思い出を真知子氏に振り返ってもらった。
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「那須とは、私が社会人の頃、通っていたシナリオ学校で知り合いました。当時、彼はまだ学生でしたが、出会ってすぐに意気投合し、結婚。それから那須は日活の助監督になり、私はシナリオコンクールに応募した作品が映画化されてデビューしました」
その後、那須監督は日活ロマンポルノ「ワイセツ家族 母と娘」(82年公開)で監督デビューし、その脚本を真知子氏が担当した。そして85年には「ビー・バップ・ハイスクール」が製作され、大ヒットとなる。
「映画に出ている不良たちは、主演の2人以外みんな本物の不良です。よく私たちの家に来て、大暴れしていましたよ(笑)。でも、みんな基本的にはいい子ですね。上映中の映画館ではケンカ騒ぎもあったみたいですが『監督に迷惑がかかるから我慢しろ! 真知子さんに恥をかかせたらダメだ!』と、収めたりしたそうです。みんな映画に出演すると責任感が出て、男らしくなっていきました。彼らは那須の死後、“偲ぶ会”にも来てくれたんですが、そこでも『俺たちロクデナシを言うとおりにできたのは那須さんしかいなかった』なんて言っていましたね(笑)。彼らの那須に対する愛情を感じてうれしかったです」
那須監督が手がけた映画は15本。そのうち真知子氏が脚本を担当したのは12本だ。
「やはり夫婦だから、自分のことをいちばん理解してくれると思っていたんじゃないですか。那須というのは言っていることが意味不明な人でしたから。それがわかるのは、仲村トオルと私だけだと周りからは言われていました」
俳優・仲村トオルのデビュー作こそ「ビー・バップ──」であり、まだ大学生だった彼をオーディションで見いだしたのが那須夫妻だ。
「例えば那須が『右に行け』と言えば、それは『左寄りの右』という意味だったりするんですよ。普通、誰もそんな細かいニュアンスは理解できませんけど、不思議とトオル君だけはそれができたんです。だからトオル君には、いまだに他の役者さんよりも強い思い入れがあります。同じ“那須組”という気持ちですね」
仲村トオルは「ビー・バップ──」シリーズ以外にも「紳士同盟」(86年公開。脚本は丸山昇一氏)や「新宿純愛物語」(87年公開)といった那須作品に、立て続けに出演する。那須組は、いったいどんな現場だったのか。
「私の立場から言うと、普通、脚本家というのは台本を書き上げたら用済みで、あとは打ち上げに呼ばれて孤独に酒を飲んで終わりということがほとんどなんですね。でも、那須は困ったことがあると現場へ呼んで相談してくれた。一緒に作品を創り上げているという感覚を強く持てる現場でしたね」
しかし、監督は肝臓ガンで05年にこの世を去る。53歳という若さだった。
「もし、那須が生きていたら、やっぱり2人で男の子のアクション作品を創っていたと思います。女の子が強いとヘタれる男の子じゃなくて『女なんていらねえや』なんていう『ビー・バップ──』のようなハチャメチャで元気な作品を。
私たちは娯楽作品が好きでこの業界に入ったんです。楽しんで創れば、見ている人も楽しんでくれる。だから那須作品は多くの人から愛されたのだと思います」