世界中のアスリートがガチンコでぶつかるオリンピック。長く五輪を取材してきたスポーツライターの折山淑美氏に、日本人選手の大番狂わせをあげてもらった。
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最近の大会で印象深い番狂わせというと、08年北京のフェンシング男子フルーレで銀メダルを獲った太田雄貴でしょう。五輪5カ月前にロシアで行われたグランプリ大会では17位と惨敗。メディアもまったくのノーマークで、北京出発の際に彼を見送ったのはたった3人だけでした。
ポイントとなったのは準々決勝のヨピッヒ(ドイツ)戦。下馬評は圧倒的に太田不利でしたが、逆にそれが勝因になった。
試合は、残り9秒で38-40で2点差をつけられていた。だが、太田はここから怒濤のラッシュで、残り6秒で1点差に。そして、残り1秒で太田の剣がヨピッヒの体に刺さり同点。延長戦では、2度太田の体に剣が刺さったが、抗議の末、無効となり、最後は劇的な一突きで大逆転をものにした。
ヨピッヒは世界ランク1位。格下の太田に対して横綱相撲、言いかえれば終始「守り」の試合でした。その結果、果敢に攻めた太田が競り勝つことができた。私も現地で取材していましたが、この時の太田は大げさでなく神がかっていましたね。
04年アテネの競泳女子800メートル自由形で金メダルを獲った柴田亜衣も、まったくのノーマークでした。
柴田は、大本命のフランスのロール・マノドゥにじりじりと迫り、最後のターン直後に逆転。みごとそのまま逃げ切り、世界をアッと言わせた。
当時、日本の中長距離のエースは山田沙知子。柴田は常にその後塵を拝する「2番手」でした。殻を破った陰には、田中孝夫コーチの存在も大きかった。前年秋から二人三脚で特訓を開始。高地合宿では、400メートル、800メートルに対応するため、徹底的なスピード練習を積んだ。その成果が五輪選考会の日本選手権で自己ベスト更新となって現れた。才能では間違いなく山田のほうが上でしたが、コーチを信じてついていく素直さが番狂わせを生んだのでしょう。
日本のお家芸の柔道では、96年アトランタの60キロ級金メダリストの野村忠宏も印象深かった。選考会で園田隆二(前女子全日本監督)を破りましたが、国際的にはまったくの無名でした。
ところが、本番では3回戦で前年の世界選手権覇者、ロシアのニコライ・オジェギンを撃破。決勝でも背負い投げで逆転の一本勝ちとなった。
全柔連の中には、世界選手権優勝の実績を持つ園田を推す声も少なくなかった。日本を出発する際には代表と気づかないカメラマンに突き飛ばされたほどでした。のちに五輪3連覇を果たす男にも、こんな屈辱の時代があったわけです。
92年バルセロナの競泳女子200メートル平泳ぎで優勝した岩崎恭子も、「今まで生きていた中でいちばん幸せ」というコメントとともに記憶に残る金メダリストでした。前年に日本歴代2位の記録を出していましたが、バルセロナで本命視されていたアニタ・ノエル(米国)の世界記録とは6秒近くの差があった。それが、五輪本番のたった1日で自己記録を5秒近く縮めてノエルを差し切った。岩崎にとってこの大会はまさに“水が合った”のでしょう。
メダルには届きませんでしたが、アトランタの陸上男子100メートルの朝原宣治、同200メートルの伊東浩司も外せないですね。両者ともに準決勝進出。朝原は4着までが決勝に進める準決勝1組でわずか0秒05差の5着。伊東も決勝の8人にこそ残れませんでしたが、記録は準決勝全体の9番目。文字どおりの惜敗でした。
それまで予選突破さえままならなかった日本短距離陣が、この大会で世界挑戦のきっかけをつかんだという意義は大きい。のちに、朝原、伊東、末續慎吾など有力選手が積極的に海外を転戦して力をつけていきました。この流れが北京の400メートルリレーの銅メダル、さらには現在の期待の星・桐生祥秀(17)の出現につながっているのだと思います。