復帰が叶わぬまま、大相撲の名解説者が逝ってしまった。
元横綱で、師匠としても2人の横綱を育て、解説者としてはその辛口評論が視聴者に愛された北の富士勝昭さんが、療養中だった都内の病院で亡くなっていたことがわかった。82歳だった。
北の富士さんは1942年、北海道生まれ。小学校時代から野球で活躍していたが、中学生の時に北海道巡業で留萌を訪れた横綱・千代の山に声をかけられたことがきっかけで、相撲に興味を持ったという。
北海道中の野球やレスリングの名門高校から勧誘されたが、横綱に声をかけられたことが忘れられず、中学卒業と同時に出羽海部屋に入門した。1957年1月場所で初土俵を踏んだが、まだ体重が軽く、出世には時間を要した。
十両に昇進したのは7年目の1963年春場所。その年の九州場所で史上3人目となる十両での全勝優勝を決めて、翌1964年初場所に新入幕。いきなり13勝という新入幕力士の最多勝記録を作り、敢闘賞を受賞した。
1966年秋場所で大関昇進。1970年春場所には、親友でライバルだった玉乃島(昇進とともに、玉の海に改名)と同時に横綱に昇進した。「北玉時代」の到来かと思われたが、長くは続かなかった。
1971年10月11日、虫垂炎の悪化で入院していた玉の海が、右肺動脈血栓症を併発して急死したのだ。27歳という若さでの訃報に、北の富士さんは人目もはばからず号泣。翌九州場所で涙の優勝を決めたものの、以降は不振に陥り、1974年名古屋場所の途中で引退。優勝10回だった。
引退後は井筒部屋を興したが、師匠の九重親方(千代の山)が亡くなると、井筒部屋と九重部屋を合併させて継承。千代の富士と北勝海の2横綱を育て上げた。
その後は解説者として、相撲ファンに愛された北の富士さん。
「和服姿が粋で、いくつになっても格好よかったですね。辛口ながら愛を感じられるコメントは洒脱で、近年では舞の海秀平氏との掛け合いが好評でした。体調を崩して昨年春場所からは相撲解説を『休場』。今年7月の名古屋場所初日にはビデオ出演して横綱・照ノ富士らの相撲に期待するコメントを出し、ファンをホッとさせていました。秋場所には復帰するものと思われていましたが、再び解説席に座ることができなかったのは残念。寂しいです」(相撲ライター)
解説の際には時おり玉の海の話題になると、寂しそうな表情で述懐していたのが印象に残る。今頃は空の上で「島ちゃん」「北さん」と呼び合いながら、酒を酌み交わしているだろうか。
(石見剣)