巨人V9時代にはリードオフマンとして活躍し、盗塁王に輝くこと6度と足のスペシャリストでもあった柴田勲氏といえば、「赤い手袋」が代名詞。柴田氏が現役の1960年代は手袋をして試合に臨む選手は見かけなかったが、そのきっかけは何だったのか。日本プロ野球名球会が運営する公式YouTubeチャンネル「日本プロ野球名球会チャンネル」に、その柴田氏が出演(7月4日投稿)、その秘密が明かされた。
柴田氏が初めて盗塁王を獲った66年の翌年、巨人が春のキャンプに訪れたドジャースのベロビーチでのこと。意外にも体が硬く、片方の足でしかスライディングができなかったという柴田氏は、ヘッドスライディングを習得しようと練習を繰り返していたところ手のひらを擦りむいてしまった。そこで絆創膏を貼ったところ今度はバットを握る際に滑ってしまうことから、球場の隣にあったゴルフ場に足を運び、手袋を調達。自分の手にしっくりくる手袋が、たまたま女性ものの赤い手袋だったそうで、その日のナイターの練習試合では2安打2盗塁の活躍だったという。
当時は素手が主流で、手袋をすると怒られた時代のようだが、縁起が良いからと帰国した柴田氏は、打つときは素手だが、ランナーに出るとポケットから取り出して赤い手袋を装着。後々は打席に立つ時点から着けるようになったという。
「俺が手袋して打ったら、みんな手袋で打つようになった」と誇らしげに振り返る柴田氏に、MCを務めるものまねタレントの神奈月が、「柴田さんの次に赤い手袋したのは新庄剛志ですよ。プレイボーイ的な人が赤を選ぶ…」とジョークが飛び出す一幕も…。
あのトレードマークとともに、今は当たり前となっている手袋着用の始まりも偶然から生み出されたものだったとは、興味深い話が拝聴できる見応えありの回だった。
(ユーチューブライター・所ひで)