元プロ野球選手の柴田勲氏といえば、1962年に巨人に入団。プロ通算6度の盗塁王に輝き、ダイヤモンドグラブ賞に5度表彰される、走って良し、守って良しの活躍ながら、リードオフマンとして巨人のV9時代に大きく貢献した、打っても良しの選手だった。
その柴田氏は、実は投手出身の選手で、強豪校の法政大学第二高等学校(以降、法大二校)ではエースとして甲子園に4度出場。2年時の、1960年夏の選手権の決勝では、静岡高校に「3‐0」で完封勝利し、初優勝を飾る活躍ぶりだった。
その柴田氏が、日本プロ野球名球会が運営する公式のYouTubeチャンネル〈日本プロ野球名球会チャンネル〉に出演。中学時代の柴田氏には、まだプロ入りの意思はなく、法政二校からの誘いを一度断っていたそうで、それでも入学を決意したのは、王貞治氏の影響が大きかったことを、去る6月27日投稿回〈【早実 王貞治さんへの憧れ】巨人 柴田勲の揺れた進路と決断の理由<日本プロ野球名球会>〉で明かしている。
当初は仲のいい友人とともに、地元の県立高校入りを考えていた柴田氏。しかし、3つ年上の王氏が、2年時の春季大会で、ピッチャーとして早実高校を甲子園初優勝に導き、関東に初めて優勝旗をもたらしたことに刺激を受けた。中学の監督から「お前、甲子園行きたいのか?」こう問われ、「できるなら行ってみたいですね」と答えた柴田氏に、ならば、法政二校の方が可能性が高いと促され、背中を押されたのだと振り返ったのだった。
柴田氏を触発した王氏の甲子園での活躍。いずれも巨人では打者に転向し、開眼していることには“深い縁”を感じてしまう。
(ユーチューブライター・所ひで)