昭和の大スター・若山富三郎を慕う後輩たちは「若山一家」と呼ばれた。芝居には人一倍厳しく、弟子たちには鉄拳を振るうことも‥‥。実子であり、付き人も務めた二世俳優・若山騎一郎(57)が振り返る。
両親は自分が物心つく前に離婚して、母には「あなたの父親は死んだ」って言われていました。だけど家にアルバムがあって、自分を抱っこしているのがどう見ても若山富三郎なんですよ。勝おじちゃん(勝新太郎)のテレビ版「座頭市」にも出ていたから、子供だってわかるんですよ。「若山富三郎じゃないの?」って聞いたら、「ああ、確かにソックリだね」って(笑)。
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千葉真一主宰のJACでアクション俳優の基礎を学び、劇団昴で経験を積んだ後、富三郎の内弟子になる。ちょうど20歳の時だ。
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俳優の長門勇さんの勧めもあって若山企画に入ることになったのですが、以前はお弟子さんやお付きの人から「坊ちゃん、坊ちゃん」って呼ばれていたんです。だから所属が決まった時は「ようやくデビューだ」って浮かれていたら、発表の席で父から「お前はいちばん下の弟子だ」って言われて、呼び方も「お父さん」から「先生」ですよ。それが地獄の始まり。一度も手を上げたことのない父が、毎日のように“殴る蹴る”ですから。もちろん理由はわかってるんです。例えば「この芝居できるのか」と聞かれれば「はい」と答えるしかない。でも、実際にやってみると、できない。「できないならできないって言え!」と鉄拳が飛んでくるわけです。
父は糖尿病を患っていて、食事前にインシュリンを打たなければいけない。しかし、肝心の注射器がないんですよ。「馬鹿野郎!殺す気か」と怒鳴り散らして、他のマネージャーや付き人はすぐに病院へ。注射器なんて簡単に分けてくれるものでもないのに。
その時、2人きりになって、父がガラス製のデカい灰皿に手をかけた時は、頭を割られると覚悟しましたよ。でも、ふと温和な顔つきになって「お父さんはコレ(灰皿)でバンバン殴ってきたんだぞ」「(母と)離婚したのは俺だけが原因じゃないんだぞ」って。ふとした時に、父の表情になるんですけど、困惑のほうが大きかった。とにかく厳しかったので、何度も縁を切ろうと思いましたよ。
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それでも富三郎から離れるわけにはいかなかった。当時の富三郎は木曜ゴールデンドラマ「暴力中学」シリーズ(日本テレビ系)や映画「修羅の群れ」(東映)に出演し、主役でも脇でも存在感を放っていた。
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辞めていった弟子たちを見てると、みんな干されているわけです。それだけ父の影響力は大きかった。でも(事務所を)辞めたい。そこで勝負に出たんです。スーツにネクタイを締めて「先生、いやお父さん」と切り出して、「このままだと甘えて自分がダメになる」「外に出て頑張りたい」と退社を申し出ると、「わかった」と。言い方は悪いけど、あの名優を騙せたんだから、我ながら一世一代の大芝居でした(笑)。
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若山企画から独立後は「暴れん坊将軍」シリーズ(テレビ朝日系)や映画、舞台でキャリアを積んだ。そして92年、訃報は突然、訪れる。勝新太郎・中村玉緒夫妻、清川虹子と京都の自宅で麻雀を楽しんでいたところ、急性心不全で帰らぬ人となったのだ。
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あまりに突然でした。本人は医師から余命宣告を受けていたものの、勝おじちゃんや山城新伍さんにしか知らせなかったそうです。「他の人間は顔に出るからダメだ」と‥‥。いかにも父らしいですよね。
世間では何かと親子間のトラブルが話題になりますが、役者の先輩である前に、自分を生んでくれた人であり、自分を作ってくれた人。この思いを胸に、今も毎月お墓を訪れています。