ビートたけしが軍団メンバー11人を率いて、講談社「フライデー」編集部に乗り込んだのは、1986年12月9日午前3時過ぎだった。
たけしの長男の私立小学校「お受験」を「フライデー」に掲載され、学校側から入学を断られてしまったこと。その後も家族への執拗な取材が続き、さらに交際相手とされていた専門学校生への執拗な取材を繰り返す中、女性に怪我をさせてしまったことに激怒。それがたけしを「殴り込み」という行動に駆り立てる引き金になったとされる。
編集部からの通報で駆け付けた警察官に逮捕された一行は、逃亡や証拠隠滅の恐れがないとしてすぐに釈放されたが、後藤田正晴官房長官(当時)の「写真週刊誌の取材のいきすぎもあり、ビート君の気持ちはよくわかる」という発言も手伝って、世間の風向きは当初、たけし擁護へと傾いていた。
だが事件後すぐに、たけしの出演番組をテロップ付きでそのまま放送するテレビ局の姿勢に、風向きは一変。「人気者なら何をしても許されるのか」「警察の処分も決まっていない容疑者を出演させていいのか」といった批判が噴出する。
結果、たけしが所属する太田プロは、たけし及び軍団メンバーが芸能活動を半年間自粛すると発表。そして、12月22日の記者会見を最後に、たけしの姿はメディアから消えることになる。
ところが、謹慎中のたけしに話を聞くことができた。翌87年6月12日のことである。郷ひろみと二谷友里恵の結婚披露宴が行われた新高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)「飛天の間」に繋がる通路でのことだった。そう、たけしも披露宴に列席していたのである。
披露宴終了後、安岡力也と一緒にホロ酔いかげんでロビーに出てきたたけしに、報道陣からマイクが向けられる。とはいえ、謹慎が決まってから、たけしがメディアに登場したことは一度もない。そのまま素通りしてしまうのでは…。そう思った瞬間、たけしはこう切り出した。
「今日は出ようかどうか迷ったんだけど、フジテレビがどうしても出てくれっていうからさ。会う人会う人に『申し訳ない』って回ったんだけど、芸能界は優しいね。小森のおばちゃまなんか、俺の顔見て『よかったね』って泣いてくれて。高倉健さんからも電話もらって『たけちゃんも大変だな』って、励ましてもらったんだよ」
「たけちゃん、もういいんじゃない。そろそろ帰ろうぜ」という安岡の声にも耳を傾けず、「俺、しゃべりたいんだよ。ずっとしゃべってなかったから」と言うたけし。
即席会見は15分を超え、その日が入稿日だった私は結婚披露宴に加え、急遽そちらの原稿も書くことになった。やはりこの男は生まれついての芸人なのだろう。改めてそう感じる会見だった。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。