70年代半ば、世界のロック・シーンの主流は、ハード・ロックとプログレッシブ・ロックという「技巧派バンド」だった。そしてロンドンでは、セックス・ピストルズをはじめとした反体制派スタイルの、パンク&ニューウェイブ・ムーブメントが勃興。
そんな最中の77年夏に渡英し、本場のパンクを体現し帰国したPhew(vo)が、78年に大阪で結成したのが、日本のニューウェイブの先駆け的存在とされる「アーント・サリー」だ。
メンバーはPhewのほか、Bikke(g,vo)、片岡(b)、丸山孝(d)、Mayu(kb)の5人。大阪のライブハウス「バハマ」や、京大西部講堂などで活動したのち、XTCの京都公演でサポート・アクトを務め、ロックファンの支持を得ることになる。
当時、関東には東京ロッカーズを中心としたパンク&ニューウェイブ・ムーブメントがあり、関西で活動する彼らは「関西NO WAVE」一派と呼ばれた。パンクスの中には、魂を置いてきぼりにしたまま、髪を逆立て、8ビートを刻みながら反体制のリリックを吐くバンドも少なくなかった。
だがアーント・サリーの音楽は、単にそのスタイルを踏襲しただけのニセモノではなく、いわばパンクが内包する「概念」を体現化した、比類なきバンドだった。
そんな彼らに白羽の矢を立てたのが、大阪の「ロック・マガジン」誌編集長だった阿木譲。彼が主宰するインディーレーベル、ヴァニティから79年に400枚限定でリリースされ、伝説と化したのが、バンドと同名のアルバム「アーント・サリー」である。
アルバムに針を落とすと始まるのが、軽快なポップスを感じさせるドラミングに続き、凄まじい不協和音のギターと、ベースのループ。それに「おはよう どうでもいいわ」という、Phewの抑揚のない歌が乗っかったタイトル曲「アーント・サリー」。
欧米民謡調の「かがみ」に続く、「醒めた火事場で」は「キューピー3分クッキング」のテーマ曲「おもちゃの兵隊の行進曲」が突如として挿入される3拍子のナンバー。そして、けだるい「日が朽ちて」に続き、A面最後を飾る「すべて売り物」は、片岡のベースとMayuのキーボードの電子音がガンガン響く8ビート・パンクだ。
B面は不協和音の「Essay」からスタート。スローナンバーの「I Was Chosen」、童謡的でポップな「転機」、ギターが畳み掛ける「フランクに」、不思議な重さを伴う「夢遊の少年」へと続く。
そして「天才なんて誰でもなれる。鉄道自殺すればいいだけ」という、シュールすぎる歌詞が胸に突き刺さるラストナンバーが「ローレライ」。
全曲を通じ、淡々とした佇まいでノイジーなギターを奏でるBikke。そして、様々な毒を極限まで盛り込んだPhewの言葉選びは、まさに「パンク」そのものだった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。