最初で最後の信濃国田野口藩主・大給恒(おぎゅう・ゆずる)、旧名・松平乗謨(まつだいら・のりかた)は、なんとも清廉潔白な元大名だった。
日本赤十字社の前身・博愛社の設立と育成に貢献。佐野常民が「日赤の父」と呼ばれたのに対し「日赤の母」と呼ばれた人物だ。
老中、若年寄、そして陸軍総裁など江戸幕府の要職を歴任した恒は当初、名門・大給松平家に流れをくむ三河国奥殿藩の8代藩主だった。
奥殿藩は、三河国額田郡の奥殿陣屋(現在の愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いていた。だが、信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)にも領地があり、そちらの方が実際は大きかった。
そのため、文久3年(1863年)ごろに藩庁を移転。これを契機に、田野口藩となったのである。慶応3年(1867年)には城郭内の御殿が完成したが、間もなく明治維新を迎えたため、城郭は未完成のままだったという。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争を契機に陸軍総裁、老中を辞任。幕府との決別を表明するため、松平から大給へと改姓した恒は明治6年(1873年)、新政府からメダイユ取調御用掛を命じられて、世界の勲章制度に関する調査を開始した。
以降、それに関わる仕事に人生を捧げ、明治28年(1895年)には賞勲局総裁となった。そして明治40年(1907年)には、賞勲制度の確立を認められて華族、伯爵となったのである。
賞勲に関わる職を歴任していたことから、「李下に冠を正さず」を実践した人物だった。宮中三大節、観桜、観菊などの宮中行事には顔を出さず、他人との交際も絶っていたという。まさに謹厳実直を絵に描いたような生活ぶりだった。
政治と金の問題が世間を騒がせることの多い今の政治家には、爪の垢でも煎じて飲ませたい、旧大名家のお殿様だろう。
(道嶋慶)