1970年代の沖縄。戦後、基地の門前町となっていたコザ市(現・沖縄市)には、米軍関係専門の飲食店や風俗店が立ち並んでいた。
そんな世相の中、「Aサイバー」と呼ばれた米軍専属の店や、基地内のクラブなどで演奏。ベトナム戦争でストレスを募らせる米兵を相手に、そのテクニカルな演奏力と重厚なサウンドで評価されてきたのが、沖縄のハードロック・バンド「紫」だった。
紫は、日系二世でUCLAで音楽を学んだリーダーのジョージ紫(org)が本土返還の2年前、城間正男(vo)、城間俊雄(b)、下地行男(G)、比嘉清正(G)、宮永英一(d)らと結成。
3歳からピアノを習っていたジョージがマサチューセッツ工科大学在学中、ディープ・パープルに衝撃を受け、大学を中退する。理想のバンドを求め、沖縄に戻ったことがきっかけだった。
耳の肥えた米兵を相手に培ったテクニックと、ヴォーカリストの遜色ない英語力。そして、重厚なサウンドと圧倒的パフォーマンスを身につけた。その名が本土に轟くのは時間の問題だった。
紫は75年、本土に上陸すべく、徳間音工(現・徳間ジャパン)と契約。翌76年4月に発売されたのが、ファースト・アルバム「MURASAKI」だった。
ディープ・パープルのカバー「レイジー」を含む、全10曲。いずれも、ジョン・ロードを彷彿させるジョージ紫の卓越したオルガンプレイに、リッチー・ブラックモア張りのギターが絡み合うダイナミックなもの。是非はあったものの、本土には存在しない本格的なハードロック・バンドとして、実に画期的だった。
しかし、個性のぶつかり合いは、衝突を呼ぶものだ。続く76年10月、彼らは当時としてまだ珍しかった12インチシングル「FREE」を発売。12月にはセカンドアルバム「IMPACT」をリリースし、4万枚のセールを記録した。
77年には「ミュージックライフ」誌の人気投票で、国内部門グループ第1位という栄冠に輝くも、78年にジョージほか2人が突然、脱退を発表。9月22日の那覇市民会館でのライブを最後に、解散することになる。
宮永はその後「コンディション・グリーン」に参加。城間兄弟と下地は残留し、79年に新しいメンバーを迎えてバンド活動を継続したが、81年には解散してしまう。ジョージも79年にアメリカからメンバーを集め「ジョージ紫&マリナー」を結成すると、2枚のアルバムを発表した。
そう考えると、この紫の活躍と分派が、沖縄ハードロック・シーンにおける、新たなバンド結成の原動力となったといっても過言ではないかもしれない。
つまり、紫の1st「MURASAKI」は、沖縄ロックの礎を築く上で、欠かすことができない最重要な名盤だったというわけである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。