日本にパンクムーブメントが定着するのは80年代に入ってからだが、実はそれから10年以上前に、その存在そのものが「パンク」というパイオニア的存在として知られていたのが「頭脳警察」だった。
頭脳警察はパンタ(vo,g)とトシ(perc)の2人組ユニットで、結成は東大安田講堂で学生と機動隊との攻防戦が繰り広げられるなど、学園闘争真っ只中の69年だった。
当時、赤軍派の拠点校だった関東学院大学に在籍、バンド活動をしていたパンタは、共産主義者同盟赤軍派の宣言文「世界革命戦争宣言」に触発される。翌日のライブで演奏しながら、檄文をアジテーション調にシャウトすると、それが学園紛争でキャンパスをロックアウトされ行き場を失っていた学生達の間で話題に。熱狂的な支持を受けることになる。
以降、ライブ活動を行う中、頭脳警察には反権力的、反体制的なイメージが定着。日本で最もラディカルであり、また「危険なバンド」として、人気を博していくのである。
そんな彼らのファーストアルバムは、72年1月に京都府立体育館で行われた、アグレッシヴなパフォーマンスを記録したライブ音源。だが、いわゆる「革命三部作」(前述の「世界革命戦争宣言」、ブレヒトの詩を翻案した「赤軍兵士の詩」「銃をとれ」の3曲)の歌詞に問題がある、とするレコード会社による自主規制で、発売中止が決定した。
急遽スタジオ録音で、問題の3曲を除いてのセカンド・アルバムが制作され、2カ月後に発表されるが、これも「レコ倫」規定に抵触。発売後、間もなく発売禁止処分が下り、前代未聞の回収騒ぎに発展することになったのである。
これらの騒動は、彼らの存在をさらに伝説化させ、幻となったファーストアルバムは、解散後の75年、わずか600枚の自主制作盤として通信販売されたのだが、中古レコード市場ではなんと1枚数十万円で取り引きされ、さらなる伝説を生むことになる。
初のCD化は、20年以上の時を隔てた01年。既にソ連が崩壊し、冷戦も終わっていたが、ボーカルとギター、パーカッションだけという編成に、グラム化する前のティラノザウルス・レックスを重ね合わせていたのは、私だけだろうか。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。