未練たっぷりの元夫に対し、サバサバした口調で爽快に答える元妻。そんな対照的な姿が見られたのが、歌舞伎俳優の坂東八十助(のちの三津五郎)と、元フジテレビアナウンサー・近藤サトの会見だった。
2人は不貞の末、98年11月にゴールイン。しかし、結婚からわずか1年7カ月後の00年6月27日、八十助が歌舞伎座の地下食堂で開いたのが、緊急離婚記者会見だったのだ。
八十助によれば、サトが「これが自分なりに出した結論です」との書き置きを残し、実家のある岐阜に戻ったのは、00年5月末。
離婚を発表するまでの1カ月間、「それこそ新幹線に何度乗ったかわからない」ほど岐阜を訪れて説得にあたったが、彼女の意志は固く、ついにこの日に至ってしまった──。そう語る八十助の目は終始うつろで、憔悴しきった表情からも、元妻への未練がありありと伺えた。
一方、その2日後に名古屋のホテルで開かれたサトの会見は、終始サバサバしたもの。そして飛び出したのが「私は子供ができることを望んでいましたが、それを誰かの意思で阻まれるのは、理解できないことでした」という爆弾発言だったのである。
というのも、八十助には前妻・寿ひずるとの間に跡継ぎの息子がいる。そのため、八十助が三津五郎の名跡を継ぎ、八十助の名は息子が継ぐというレールが出来上がっていた。
となれば、サトとの間に男児が生まれた場合、跡目相続を巡って問題が勃発する可能性がある。そこで、梨園に携わる何者かにより「子作りを阻まれた」というわけなのである。
しかし、会見で彼女は、それが誰なのかについては「お察しいただきたい」と答えるのみ。つまり、「当事者」はマスコミの皆さんで探して下さいね、というわけだ。
さっそく、八十助の実妹を直撃。だが答えは「何もお話しすることはございません」。松竹の幹部らも「ばかばかしい話で、コメントの出しようがない」とけんもほろろである。
伝手を頼り、なんとか八十助の後援者に辿り着くと、本音をこう吐露してくれた。
「八十助には前妻との間に、跡取り息子がいたわけです。そんな状況の中、遊びなら『芸の肥やし』で済ませられたものの、お互い本気になってしまった。結局、前妻を追い出す形で梨園に入ってきたサトさんに対し、後援会は最初から拒否反応を起こして、全く受け入れられる状況ではなかった。私自身は、誰が『子供を産むな』と言ったかは知りませんが、正直、後援者は皆、同じ気持ちだったんじゃないですかね」
なるほど、つまりこの離婚劇の裏には「梨園の掟」があり、掟そのものを含め、自分を守ってくれない夫に愛想を尽かしたということらしい。
離婚から3年半後、サトはイベントプロデューサーと、デキちゃった再婚。彼女の逞しさに脱帽したものである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。