一昨年3月、新型コロナウィルス感染による肺炎で、70歳という若さでこの世を去った志村けん。そんな志村が所属していたザ・ドリフターズのリーダーで、志村にとって笑いの師匠だったのが、04年3月に頸部リンパ節ガンで亡くなった、いかりや長介だ。
志村は17歳の時、いかりやに弟子入り。7年間の下積みを経て74年4月、晴れてドリフのメンバーとなり、「8時だよ!全員集合」(TBS系)に出演すると、「東村山音頭」で大ブレイクした。
その後も「カラスの勝手でしょ」「ひげダンス」と矢継ぎ早に爆笑ネタを生み出したことについては、今さら詳しく説明する必要もないだろう。だが、その笑いに対するストイックな考え方から、いかりやとは、しばしば対立。2人の間には長い間、不協和音が流れていたと伝えられる。
03年12月、結成40周年を記念し、5人が揃って「40年だよ!ドリフ大爆笑」(フジテレビ系)のオープニング部分を収録するとあり、さっそくTBS関係者を取材すると、
「正直、色々あって、長さんと志村さんが一緒にいるところを撮ることができなかったからね。だから結局、オープニングは20年間ずっと同じ映像のまま。今回は20年ぶりのリニューアルとあって、実はスタッフの方が感無量なんですよ」
この関係者によれば、いかりやがスタジオにいたのは、わずか30分足らず。喉の不調を訴えるいかりやに対し、志村が「早く済ませよう」と気遣う場面もあったのだとか。
しかし志村にとって、まさかこの日がいかりやと過ごす最後となってしまうとは…。
04年3月24日、東京・港区の青山葬儀所でしめやかに営まれた、いかりやの葬儀。舞台出演のため、前日の通夜に参列できなかった加藤茶をはじめ、久しぶりに顔を合わせた4人は、告別式の前に記者会見。
「大黒柱がいなくなり、非常に残念です」(加藤)
「もっと生きてほしかった」(高木)
「あとは息子同士でドリフターズを守っていきます」(仲本)
それぞれがいかりやに対する思いを語る中で、志村は、
「すごいリーダーのグループのメンバーだったことに、誇りを持っています。いちばん心配してくれて、ボーヤ(付き人)にしてもらって、メンバーにも入れてもらって、チャンスを与えてくれたのは、このいかりやさんでした。感謝しています」
憔悴しきった表情で、唇を噛んだのである。
いかりやの死から17年後、向こうの世界へ旅立った志村。そして昨年10月には、仲本工事も。天国では、おそらく3人で酒を酌み交わしながら、当時の思い出話に花を咲かせていることだろう。
いかりやの葬儀の際、白い花で飾られた祭壇には、無心にウッドベースを弾くいかりやの写真が飾られていた。そう、ドリフの原点はバンドだ。遺影に映る、なんともカッコいいその姿に、無骨なバンドマンを見た思いがした。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。