「ゴングが鳴って、世界タイトル戦が決まった感じだね。幻の右で国会に行きますよ」
95年2月3日夜、東京・中野にある自宅で、報道陣を前に衆院選出馬を表明したガッツ石松は、カメラマンの要望にこたえて、往年のファイティングポーズを決めながら、こう言って意欲を語った。
ガッツが当時、自民党幹事長の森喜朗氏から衆院選立候補の打診を受けたのは、前年のことだった。この年の6月、当時、野に下っていた自民党では結党以来初めて、衆院選の候補者公募を決定。方法は自薦と他薦の二通りで、ガッツは都議会議長ら9人により、東京9区(練馬区)の自民公認候補として衆院選に出馬することになったのである。
「初めは参議院から勉強して、と思ったんだけどね。幹事長から『君の人生経験を衆議院で発揮してくれないか』と直々に言われて、自民党に下駄を預けることに決めました」
ガッツ自身、政治には以前から大きな関心を抱いていたそうで、
「芸能界にいる時、菅原文太さんや、亡くなられた植村直己さんたちと一緒に『カミナリ親父の会』というのを作ってね。教育問題について勉強していたんだ。子供は未来の宝。お年寄りは日本をここまで導いてくれた恩人。この宝と恩人が大事にされない国に、将来の発展はないですよ。私は義務教育しか終えていませんので、大蔵大臣とか法務大臣は無理です。ですが、文部大臣や、福祉行政を担当する厚生大臣なら自信がある」
当選前から「大臣」の目標を掲げるガッツの姿に、底知れぬ闘争本能を感じたものだ。
しかし、出馬宣言後、練馬区内に自宅兼事務所を構えて周辺を駆け回るものの、結局、解散・衆院選までには1年8カ月の時間を要する「生殺し状態」が続いてしまう。
翌96年10月、再び練馬区内の事務所を訪ねると、
「選挙資金で借金は1億円。ほんと、太平洋を漂流していた感じだったからね。やっと試合が決まり、待ってましたという心境」
だが10月20日、総選挙の即日開票が行われる中、テレビ画面に映し出された開票速報に色めき立つ陣営に響いたのは「えっ、何着だ? 2着? 3着か…」というガッツ自身の声だった。4万3766票を獲得したものの、トップとの差は2万4000票余りで3位となり、落選。「OK牧場!」とはいかず、3億円の借金だけが残されたという。
あるインタビューで「正直、俺は自死も考えた」と語っていたガッツだが、辛抱強くひたすら真面目に、実直に頑張り続け、10年かけて3億円を完済。最後の借用書を処理した瞬間、体調を崩し、救急車で病院に緊急搬送されたというから、その精神的苦悩はいかばかりだったか。
当選すれば天国、落選すれば地獄と言われる選挙戦。ガッツもまた、そんな壮絶な地獄を味わったひとりだったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。