テリー 記事になるまでの取材は、どういうふうに進んでいったんですか。
神山 取材はある意味、簡単とは言いませんが、順調でした。それよりも気を遣ったのは、取材を始めてから「週刊文春」が出るまでに1カ月半あったんです。この間に万が一、みっくんや新垣さんに何か危害が加えられてはいけないので、その2組に弁護士をつけて、新垣さんにはホテルに入ってもらって、身の安全を確保していました。
テリー なるほど。
神山 もう一つは、新垣さんが音楽的にどのくらいすごい人なのか、初めの段階ではあまりわからなかったわけです。そこで都内のピアノバーで、新垣さんとみっくんにシークレットライブをやってもらったんです。ごく近しい人と編集部の人に来てもらって。するとピアノもすばらしいし、みっくんものびのびと弾いてくれて、この2人だったら全力で守っていこうと。こういった準備のほうが大きかったですね。
テリー 佐村河内さんとは直接は会ったんですか。
神山 自宅まで行きましたが、会えませんでした。1月30日に最後のメールをやり取りしました。
テリー どんなメールをしたんですか。
神山 「あなたの創作過程に重大な疑義がある、このままだと2月6日の『週刊文春』に書きますので、その前に佐村河内さんの主張されることを僕に話してください」と。最初は否定していたんですが、2通目のメールでは「あなたの言うとおりだ。僕ら夫婦に死ねということですか」といったことが書いてあった。
テリー 急に弱気になったんだ。
神山 その時は僕も、佐村河内さんにはプロデュース能力があると思っていましたから「いやいや、死ぬ必要はありません。時間をかけて世の中にお詫びして、許してもらえるなら他の方法であなたの力を発揮しましょう」というメールを打ったんですけどね。
テリー 3月7日の佐村河内さんの記者会見から約2カ月がたちましたけど、現場ではどのように感じられましたか。
神山 会見は謝っているのではなく「バレてしまってごめんなさい」ということでしたよね。
テリー そうでしたね。
神山 僕は佐村河内さんのいちばん目の前に座っていたんです。そこで彼は全ての報道の発端である「記者の神山」をあえて指すんです。広島県人の侠気(おとこぎ)というか、敵に後ろを見せちゃいけないという気持ちなのかなぁと思ったんですけど。
テリー どういう心理なんですかね。僕は恍惚感に浸っているのかなと思ったんです。追い込まれているにもかかわらず「はい、キミ」と記者を指す時、気持ちよさそうだったから。
神山 怒られようがほめられようが、「佐村河内」という名前や映像が出ることが、彼にとっては一つの生きがいなんでしょう。