ロシアによるウクライナ進攻では、お金で雇われ戦地に赴く傭兵の存在が、クローズアップされている。
日本の傭兵といえば、大量の鉄砲を使いこなし、石山本願寺側の人間として織田信長に立ち向かった「雑賀衆」と呼ばれる軍団が知られている。
「雑賀衆」では雑賀孫一こと鈴木孫一が有名だが、もうひとり、忘れてはならない人物が佐武伊賀守義昌だ。はじめ佐竹姓を名乗っていたが、室町幕府15代将軍・足利義昭の命を受けて、佐武姓となったと伝わっている。
天文7年(1538年)生まれ。伊賀守を名乗っているが、実は正式な官位はもらっていない。伊賀守は自称だ。
紀州雑賀の鷺ノ宮の豪族だった伊賀守は雑賀衆にひとりで、幼少の頃から鉄砲の打ち方を学び、超一流の腕を身につけたとされている。スゴ腕のスナイパーだ。
天文18年(1549年)、12歳で初陣を果たし、その後は根来寺の子院福宝院の行人となる。戦闘訓練に明け暮れ、さらに鉄砲の腕を磨いていった。
傭兵として初めて出稼ぎに出たのは、永禄3年(1560年)。当時、土佐は長宗我部国と本山茂辰が舅と婿の関係ながら、争っていた。伊賀守はその腕を見込まれて両軍から誘いがかかったが、田畑70町歩(約69.4ヘクタール)の報償を条件に、本山方についた。詳しい計算は省くが、1町歩の4.7個分が東京ドームの広さに相当する。70町といえば、東京ドーム約15個分にも相当する広大な土地だ。だが、次第に本山方は長宗我部方に押され、戦況が悪化。伊賀守は土地を手にすることなく、土佐を去った。
元亀3年(1570年)、三好家(大将は結城忠正と根来の玉宝)の織田家攻撃に参加。その後も石山本願寺に加担して、信長勢を相手に活躍した。
宿敵・信長の死後は雑賀に戻ったが、豊臣秀吉が天正13年(1585年)に行った紀州攻めの際に降伏し、弟の豊臣秀長の家臣となったという。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、新たに紀州の領主となった浅野家に仕えて500石を与えられ、大坂の陣に従軍。元和5年(1619年)、浅野家の安芸移封にも、80歳の高齢ながら従っている。
(道嶋慶)