「週刊誌に書いてあることなんて、みんなウソだからね、これ、全部放送してよ」
94年9月27日、京都・太秦の撮影所で時代劇の撮影に臨んでいた中村勘九郎は、武者姿のまま記者会見を開き、一気呵成にそうまくしたてた。
コトの起こりは、9月24日未明のこと。当時、勘九郎との「ただならぬ関係」が噂されていた宮沢りえが、なんと、京都全日空ホテルで左手首に5センチの傷を負い、西大路病院に救急搬送。それがメディアに漏れ、すわっ自死未遂か、と大騒動に発展したのである。
幸い命にかかわるケガではなかったことで、りえは同日夜に開催された「京都国際映画祭」のオープニング・レセプションに参加。「コケちゃったんです」と語ったものの、前夜に勘九郎ら4人とスナックで飲んでいたことが発覚。しかも、彼女が「ケガ」をした場所が、宿泊先の京都ホテルではなく、勘九郎が宿泊していたホテルだったことで騒動に拍車がかかり、この日の会見となったわけである。
冒頭からハイテンションな勘九郎は、不貞や自死未遂説を完全否定し、
「私のために宮沢りえさんが手首を切って自死未遂を起こしました、と言えば皆さんは喜ぶでしょうが、冗談じゃない。酒を飲んで、お母さんと喧嘩して転んでケガをした。それがいったい何の罪になるの。もし僕がそういう関係だったら、病院についていく。逃げたりはしないよ」
時折、声を荒げるシーンもあったのである。
事故発覚の端緒は「りえの様子がおかしいので、部屋を見にいってほしい」という1本の電話(のちに、電話をかけたのは北海道にいた『北の国から』の杉田監督だったと判明)だったが、午前5時に姿の見えない相手から電話で頼まれ、超がつく有名人が宿泊する部屋をマスターキーで開けるという行為が、いかに状況が緊迫していたかを物語っていた。
とはいえ、むろんホテル側はノーコメント。警察も「事件性はないので、コメントする立場にない」。
そこで同ホテルのシングルルームを予約し、りえが「落としてケガをした」というバスルームで、実際にホテル常備のコップを落とす「実証実験」をやってみた。厚さ2ミリほどあるグラスは頑丈で、割れるどころか、欠けることさえなかった。しかも、りえの右手の指にも、ガラスを握りしめた時にできるような傷があったという。これは何を意味するのか…。
約10分にわたる会見で、不貞は否定しながらも、
「宮沢さんは友達、というか好きな人ですよ」
と語っていた勘九郎。本音だったのか、あるいは迫真の演技だったのか…。そんな騒動から28年。今もって真相は藪の中にある。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。