3歳から子役モデルとして活動し、84年に映画「パンツの穴 花柄畑でインプット」のオーディションで準優勝した後、同映画に本名の島田奈央子で出演。翌年、雑誌「Momoco」に登場して、西村知美、杉浦幸とともに「桃組3人娘」と呼ばれ人気者になったのが、島田奈美だ。
レコードデビューは、翌86年5月。作詞・森雪之丞、作曲・中崎英也という、当時アイドルポップスの「金字塔」と言われたこのメンツで制作され、売上4万2000枚を記録。オリコン最高順位19位に輝いたスマッシュヒットが「ガラスの幻想曲(ファンタジー)」だった。
しかし、ドラマティックに展開する歌詞とミドルテンポの楽曲は、可愛らしさより、しっかりした歌唱で聴かせる曲調で、おニャン子バブルに沸く当時としては、ある意味、無謀ともいえる仕上がり。結果、賞レースへのエントリーを逃している。
まだ、あどけなさが残るキュートな顔立ち。しかし所作や佇まい、そして目力には、どこか毅然とした意志の強さが感じられ、「アイドルは歌が下手でいいんだもん」の真逆をいく姿勢が「アンチおニャン子」から絶大な支持を受けていた。
結果、6枚目「パステル・ブルーのためいき」(87年5月)が7位、7枚目「ハロー・レディ」(同年11月)が10位と、連続トップ10入り。その原点にあったのがジョン・レノンで、かつて「ザ・ベストテン」(TBS系)出演の際、MCの黒柳徹子から、次のように紹介されている。
「奈美さんが目標にしている歌手はなんと、ジョン・レノンだそうです。彼のように自分自身の中から湧き出るように、毎日の日記みたいな歌が歌えたらいいな、と言っています」
なるほど、さぞかしアイドルの世界は居心地が悪かったのでは、と思ってしまう。
案の定、稀にみるスピードで歌唱力、表現力をアップさせていった彼女は、8枚目のシングル「タンポポの草原」を最後に、それまでの音楽性と決別。次作の「NO!」からは、ダンスミュージックを意識した「脱アイドル」へと舵を切った。
だが、それが裏目に出てしまったのか否か、90年、自らの意思で芸能界を引退することになる。残したシングルは13枚、アルバムは14枚だった。
現在は、本名の島田奈央子名義で、ジャズなどの批評を書くライター、またDJとして活躍している。
(大石玲太)