現在では考えられないことだが、70年~80年代のアイドルには、シモネタやキレイごとを並べたエピソードに対するツッコミ等々、ファンには触れてはならない聖域があり、そのひとつが「歌唱力には触れない」という暗黙の了解だった、とされる。
とはいえ、能瀬慶子の歌はぶっちぎりの衝撃だった。とにかく、元気ハツラツ、言葉も明瞭なのに、ヴィブラートをかけているのか震えているんだかわからない声が、あたりの空気を凍らせていた…らしい。
能瀬は千葉県生まれの東京育ち。高校在学中だった78年、第3回ホリプロタレントスカウトキャラバンで、3万8700人の応募を勝ち抜いて優勝した。
自然で屈託のない笑顔と、健康的な空気感が「美人じゃないけど可愛く感じる」「明るい太陽のようなイメージ」という、ホリプロの王道アイドル像にドンピシャ。さっそく、同年12月に公開された事務所の先輩・山口百恵の主演映画「炎の舞」(東宝)で、妹役として女優デビューした。
そして年を跨いだ79年1月、キャニオン(現・ポニーキャニオン)のNAVレーベルから「アテンション・プリーズ」で、歌手デビューを果たしたのだった。
しかし、浜田省吾が作曲した楽曲が、あまりにも彼女の力量とかけ離れていたのか、直線的な、ほぼ地声100%の歌声と相まって、強烈なインパクトを生み、類を見ない個性を際立たせたのである。
さらに同年には「赤い激突」以来、約1年ぶりに復活した赤いシリーズ第8作「赤い嵐」にヒロインとして抜擢された彼女は記憶喪失の少女・小池しのぶを演じ、「百恵の妹」として期待された。
だが、大映ドラマ特有の突飛な設定と展開に加え、記憶喪失の少女とあって「ここはどこ?私は誰?」など、なかなかパンチの効いたセリフを連発。おかげでドラマは視聴率20%前後をキープした。
とはいえ、相手役の柴田恭兵が呼びかける「しのぶちゃん!」というセリフばかりがクローズアップされ、モノマネの定番になるも、能瀬本人が女優としてブレイクすることはなかった。
その後、彼女は1年のうちに4枚のシングルと1枚のアルバムをリリース。だが、デビュー曲のオリコン最高位62位(2.6万枚)にははるか及ばず、次第にホリプロはマネージメントのウェイトを、後輩である比企理恵や甲斐智枝美にシフトしていく。能瀬は実質79年の1年のみで、芸能界から去ることになったのである。
結婚後、メディアに登場することはなくなったが、お祭りが好きで、アイドル時代には神輿を担ぐ姿を披露。噂によれば、地元の湯島天神で太鼓保存会に所属し、和太鼓の伝統継承に尽力している、とも。記録より記憶に残る歌手。それが能瀬慶子だったのである。
(大石怜太)