70年代に大人気だった宮脇康之主演の「ケンちゃんシリーズ」のひとつ、「おそば屋ケンちゃん」(75年)にヒロイン・不二子として出演。その際、宮脇が「この子じゃなければダメ!」と指名し、急遽、相手役として起用された、という逸話を持つ…それが沢田聖子だ。
「聖子」と書いて「しょうこ」と読む。松田聖子と一文字違い。さらに同い年(誕生日も3日違い)とあって、口の悪い松田のファンからは「人気にあやかったのでは」といった失礼な陰口もあったが、実はデビューは彼女の方が1年早い。しかも「松田聖子」が芸名なのに対し、沢田は本名。つまり、こちらが元祖「聖子ちゃん」というわけだ。
子供の頃から歌手に憧れていた彼女は、オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ系)に応募。決戦大会に進むも合格とはならず、歌手デビューは叶わなかった。
そこで78年、イルカオフィスが立ち上げた、新人歌手オーディションに参加。当時、同オフィスでは、イルカの産休からの復帰と同時に、イルカのファン層とは別の中高生のファン層をターゲットにした新人アーティストを探していた。
沢田はピアノの弾き語りで「硝子坂」や「時代」を歌い、合格する。16歳で同社と契約することになり、翌79年5月、クラウンレコードから「キャンパススケッチ」で、念願の歌手デビューを飾った。
キャッチコピーは「イルカの妹」。 まだ女性シンガーソングライターが少なかった80年代初頭とあり、彼女のあどけないルックスはアイドルと同列に扱われた。一方、抜きんでた歌唱センスにより、シンガーソングライターの先駆けとして、学園祭出演数No.1を記録するなど、「学園祭のプリンセス」と呼ばれたのである。
とはいえ、なにぶんアイドル全盛時代。沢田が初めてオリコンチャート入りを果たした(最高位68位)のは、5枚目のシングル「春」(81年2月発売)で、最高のヒットとなる7枚目の「卒業」(83年1月発売)も、50位にとどまることになり、いわゆる「大ヒット曲」というものには恵まれなかった。
さらに80年代は、もうひとりの「聖子」に間違われたり、ニセモノ扱いされることもしばしば。そのたびに拳を握りしめた沢田ファンは少なくなかったというから、困った時代だ。
だが、若いうちの苦労は買ってでもしろ、というたとえがあるように、苦労が多かった反面、だからこそ、ポッと出のアイドルとは根性が違った。何度もレコード会社を移籍しながら、40枚以上ものアルバムとシングルを発売。現在も精力的に活動を続けている。
そんな彼女が身近に感じられるのは、最新作となる42枚目のアルバム。12月10日に発売された「ReposeairIII ~ルポゼール3」だ。インストゥルメンタルの楽曲が並ぶが、ぜひ一聴してみてはいかがだろうか。
(大石怜太)