別居中の妻と思われる女性に車で尾行され、深夜、駐車場に止めた車のドアやトランクを合鍵で開けて「痕跡」を調べられたあげく、こともあろうに、張り込んでいた写真誌に、その一部始終が掲載される。それが96年11月に起こった、三田村邦彦と22歳年下の女優・高橋かおりとの不貞疑惑騒動だった。
三田村と高橋は同年7月に、舞台「宮沢賢治」で共演。記事を掲載した「FOCUS」(12月4日号)によれば、2人は11月23日、銀座で買い物をした後、六本木で昼食を共にする。続いて有楽町で映画を見て、新宿に移動。夕食を摂った後、いったん高橋を自宅に送り届けた三田村が再び彼女をピックアップし、新横浜駅前にあるホテルの一室へと消えていった、というのである。
11月26日に、当時、事務所の社長だった妻の中山麻理がセッティングした釈明記者会見に臨んだ三田村は、毅然とした態度でこう言い放った。
「僕はプライベートを公開しない、という考え。だから交際を認める、認めないを話すつもりはありません」
だが、報道陣から矢継ぎ早に質問が飛ぶと、しだいに額から汗が吹き出し「いや、だから…」「もうやめましょう」と、しどろもどろに。ついには男性記者の肩に手をやり、
「男同士、わかって下さいよぉ~」
ただ、男女の関係については、
「皆さんが聞きたいのは、エッチしたかどうかでしょうが、かおりちゃんには常々『床の間に飾っておきたい』と言っているくらいで、何もしていません」
この言葉を額面通りに受け取った記者がいたかどうかはわからないが、一方の高橋も、事務所を通して「お誘いがあって食事をしましたが、報道されるような関係ではありません」とコメント。当然のごとく、2人揃って不貞報道を全否定したのである。
その後、幾度となく郊外にある三田村の自宅を訪ねるも、中山は沈黙したまま。夫妻は弁護士を立て、離婚の話し合いに入ることになる。
翌97年10月、突如として中山がワイドショーの取材に答えた。
「三田村は6月に家を出たまま、連絡もない。私と子供たちに生活費も渡さない。餓死しろということでしょう。人間失格ですよ」
涙ながらにそう激白したのである。これに三田村も、自分のギャラは中山が社長を務める会社に振り込まれているはず、と反論し、離婚劇は第二幕に突入していくことになるのだ。
だが、ドロ沼のトラブルが長期化しても、双方にとってメリットなどあるはずはない。結局、2年後の99年11月26日に「一日も早く別れたい」という中山の強い希望により、彼女が子供の親権を持ち、三田村が養育費を払うが慰謝料は一切なし、という条件で離婚が成立したのである。
思い起こせば、2人が電撃結婚した80年6月。その際の会見で、6歳上の中山は、
「浮気したら、慰謝料を4億円もらうことになっているんです」
と語っていたが…。残念ながら、その約束が守られることはなかったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。