2019年3月26日、都内の病院でGIST(消化管間質腫瘍)のため、68間の生涯を閉じた個性派俳優、ショーケンこと萩原健一。1980年代中盤から交際8年、同棲5年半を経て、結婚間近とされていたのが、4歳年上の倍賞美津子だった。
2人は1985年に映画「恋文」で共演。当時、倍賞には参議院議員だった夫・アントニオ猪木がいた。2年後の1987年、倍賞と猪木との離婚が成立したことで、2人の仲は急接近。倍賞が横浜市内にある萩原の自宅に通うようになり、同棲が始まった。すると萩原は彼女を「うちのカミさん」と呼ぶなど、2人の仲は誰の目にも夫婦同然に映っていた。
ところがそんな2人の間に大きな溝が生まれたのは、1993年11月のことだった。萩原がこの年の7月にドラマで共演した石田えりと、深い関係になったのだ。
石田は1990年、前夫のミュージシャン・芳野藤丸と離婚。その際の会見では「(結婚は)懲りません。私、男好きですから」とVサインし、報道陣を驚かせた。まさに肉食系女子の面目躍如ということなのか。
「火遊び」なのか「本気」だったのかはわからないが、この報道を境に、倍賞は萩原の家を出て都内のマンションへ。そして、一部メディアの取材に対し「別れたのは事実です。でも、理由は言いたくありません」と語ったことで、この降って湧いたような突然の幕切れに、がぜん芸能マスコミが色めき立ったというわけである。
1993年12月15日、報道陣の要請を受けて、横浜市内の自宅前で記者会見に臨んだ萩原は、破局したことを認めた上で、こう語った。
「ギクシャクし始めたというか、その避けていたものっていうのを話さなくて…だんだん長く生活しているといろいろ感じたり、言わず語らずね、そういうのもあるじゃない。人生半ばを過ぎて、まだやり残したこともあるし、家族が崩れかけていたことに、気が付かなかったとも言える。結局(結婚の)タイミングを外したというのかな。別れた原因は、俺にもわからないよ。それにしても、彼女の方から(破局を)話すなんて思わなかった」
終始、そんなトーンで淡々と話していた萩原だったが、質問が石田との関係に及ぶや、表情が一転。
「女性問題が原因じゃない! もう来なくていいから! もうインタビューしなくていいから。もう、やんない。それじゃ…」
そう言って報道陣に背を向け、会見は終了した。確かに萩原が言う通り、結婚にはタイミングが重要だ。ただ、だからこそ、夫婦同然の関係だった倍償にとって、萩原の浮気は許しがたい行為ではなかったのだろうか。二兎を追うもの、一兎も得ず。そんな言葉を痛感したのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。