で、わたくしが殿の付き人だった時代にもこんなことがありました。
殿は役者として、とある映画に出演されることになったのですが、その映画に出演するにあたり、殿は監督さんに、
「出るのはいいけど、現場で絶対に怒鳴ったりしないでね」
といったお願いをされていたのです。
ちなみに殿は、83年公開の映画「戦場のメリークリスマス」に出演された際、役者経験のなかった、共演者・坂本龍一さんとともに、
「怒鳴ったりしないでください。怒鳴ったりしたら、すぐに帰っちゃいますよ」
といった要求をし、巨匠・大島渚監督に約束させたといいます。何ともすごい2人です。
話を、わたくしの付き人時代に戻しましょう。
殿の「絶対に現場で怒鳴らないで」といった要望を承諾した、その監督は確かに、殿が出演されているシーンでは、けっして大きな声を張り上げることなく、大変静かな監督として、日々、撮影に臨んでおられました。殿は、そんな監督さんを見て、
「本当は怒鳴りたいんだけどよ、我慢してるんじゃねーか。きっとあれだな。家帰ったらポリバケツの中に向かってよ、『たけしのバカ野郎! 今日の演技は何だー!』なんてやってんじゃねーか」
と、笑いながら話されていたのです。
で、順調に撮影が進んでいたある日のこと、朝からの撮影も終わり、私服への着替えを済ませ、その日、夜から食事会の予定が入っていた殿は、足早に“お先に失礼、また明日もよろしく”といった感じで、すばやく撮影現場を去っていかれました。
現場に残されたわたくしと、殿のマネジャーとで、楽屋周りをざっと片づけ、“じゃーそろそろ、わたくしたち2人も帰ろうか”となり、わたくしが、帰りがけに撮影現場にあるトイレに立ち寄ると、“大”を処理する部屋に、1人どなたかが入っていました。
で、“小”のわたくしは、一緒に帰るため待っているマネジャーを待たせては悪いと思い、すばやく用を足し、手を洗い、トイレを出ようとしたその瞬間、その、1つだけ戸が閉まっていた“大”の部屋から、聞き覚えのある声で、
「ちきしょう。たけしのバカ野郎!」
といった怒鳴り声が、はっきりと漏れ聞こえてきたのです。〈あっ、この声、監督さんの声じゃないか?〉咄嗟にそう判断したわたくしは、何かいけないものを聞いてしまったと思い、すばやくトイレから立ち去ると、その日は静かに帰路についたのです。
翌日、昨日のトイレで聞いた怒鳴り声のことなどすっかり忘れて、いつものように役者・ビートたけしの付き人を務めていると、ある噂が殿の耳に入ってきました。何でも、ここ最近、殿が出演しないシーンの撮影現場では、監督さんがまるで別人となり、途端に大きな声を張り上げて、ガンガン怒鳴りまくって現場を仕切っているといいます。その噂を聞きつけた殿は、
「あの監督、やっぱり我慢してやがったな。いよいよ本性出しやがったな。あ~、やだやだ」
と、“まーとりあえず、俺には害はないから、知らん顔して放っとこ”といった発言を、少しばかりニヤニヤされながら、わたくしに言い放ったのでした。