すっかり春めいた和歌山県の白浜町の白良浜(しららはま)にある記念碑の前に、大勢の人々が集まっていた。大阪市内から観光バスでの日帰り旅を主催したのは、ボクシング元世界王者の井岡弘樹氏だ。
記念碑は1988年に死去したボクシング・トレーナーで、名伯楽として多くのボクサーから尊敬されていたエディ・タウンゼント氏を称えるもの。2004年に井岡氏らが白浜町に寄贈して、町の名物になっている。
白良浜とエディ氏は深いつながりがあり、井岡のトレーニングの舞台になったのが、この浜であった。ここで走り、そしてリングに見立ててのハードな練習を繰り広げていたのである。白く美しいビーチは砂が流されたことによってやせ細り、現在はオーストラリアから白い砂を輸入して撒いている。エディ氏の生まれ故郷ハワイとは、友好姉妹浜の関係を結んでいる。
日本人の母とアイルランド人弁護士だった父との間に生まれたエディ氏はハワイのアマチュアボクサーだったが、戦争でボクシングを辞め、トレーナーの道へと進んだ。ハワイに来ていた力道山の招聘によって来日し、レスラーにトレーニングを教えたのが最初の仕事だった。そして力道山の不慮の死により、ボクシング・トレーナーに転じる。
当時の日本スポーツ界のトレーニングは前近代的なもので、指導者が竹刀で選手を叩くことなど当たり前。根性論に支配されていた。
「牛や馬じゃあるまいし、竹刀で叩くなんて許せない」
エディ氏は、竹刀を置いているボクシングジムで指導をすることはなかった。根性論を否定し、合理的な指導を選手たちに説いたのである。選手のことを本当に考えた、愛情あふれる指導は選手たちに広がっていく。尊敬を集める存在になり、「名伯楽」と呼ばれるようになった。
エディ氏が世界チャンピオンを6人も生み出したのは偶然ではなく、彼の人間性によるところも大きい。最初のチャンピオンは、1967年の藤猛であった。強打のKO劇はスカッとして、大変な人気者になった。ハワイ出身の藤が試合後につたない日本語で言う「岡山のおばあちゃん見てる?」は流行語にもなった。
その他にガッツ石松などを生み出し、最後の愛弟子となったのが井岡氏であった。井岡氏が14歳の頃から寝食を共にして育て上げ、白良浜でのトレーニングで強くした。
世界王者となった井岡氏の初防衛戦で、エディ氏はガンに冒され重体だった。だが、どうしても見届けたいと、担架に乗せられて試合会場に来た。そこで意識が混濁して病院へ戻り、息を引き取ったのである。