世界チャンピオンを5人も輩出。日本ボクシング界の名門ジムとして知られていた「ヨネクラジム」が8月31日で閉鎖となる。常々、「ジムは一代限り」と米倉健司会長は全精力を注ぎ、ガッツ石松や大橋秀行など数多くの選手を育て上げた。さながらボクシング版「虎の穴」とも言える55年に及ぶその歴史を振り返る。
8月22日、ボクシングの聖地・後楽園ホール。9日後に閉鎖されるヨネクラジムの最後の試合として、所属選手の溜田剛士(24)が、日本ユース初代フェザー級王座決定戦に挑んだ。結果は、3回終了TKO勝ち。世界、東洋太平洋、日本王座を含め、37人目の王者として名門ジムの有終の美を飾った。
試合後、ジムの関係者10人がリングに登場。ジム閉鎖の区切りとしては異例の10カウントゴングが鳴らされた。だが、その中に55年にわたってジムを切り盛りしてきた米倉健司会長(83)の姿はなかった。
ヨネクラジムの創設は、東京五輪を翌年に控えた1963年にまで遡る。アマチュアで56年のメルボルン五輪代表となり、プロでは二度世界王座に挑戦した米倉会長は、眼の負傷のため28歳で引退後、東京・大塚にNPヨネクラジムをオープン。69年に現在の目白へと移転し、ヨネクラジムと改名した。今でも西武池袋線の車内から見える、往時の姿をしのばせるレトロな木造建築が、記憶にある読者も少なくないだろう。
柴田国明、ガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志と、実に世界王者5人に加え、東洋太平洋王者9人、日本王者31人を育て上げた実績から、「日本一のチャンピオンメーカー」との異名を冠された。経営維持の観点からフィットネスコースなどに注力するジムが増える中、最後までプロ選手の育成一筋にこだわり、世界チャンピオンの輩出に全てを賭けた。
「他のジムは個別練習が基本ですが、米倉会長はアマチュアでよく見られる全体練習を崩さなかった。練習は午後から4回行われるのですが、各回に必ず先導役のジム生がいて、彼らの掛け声とともに練習が進められ、それが特徴的でした」(スポーツ紙ボクシング担当記者)
55年のジムの歴史を振り返れば、70年代の第一期黄金時代を象徴するのがガッツ石松氏だろう。16歳で初めてジムを訪れた時のことを、ガッツ氏は、はっきりと覚えているという。
「ジムはまだ大塚にあった頃でした。窓から中をのぞいたのですが、あまりの迫力と殺伐とした雰囲気にけおされてしまって、足が動かないんです。結局、その日はジムに足を踏み入れることなく家に帰りました」
翌日、意を決してジムに入り大声で挨拶するものの、トレーナーから返ってきたのは「何しに来た!」という怒声だった。
「とにかくジムには人があふれていました。だから入門後もなかなかトレーナーから声をかけてもらえないし、教えてもらえない。サンドバッグを打つのも奪い合い。リングに上がる前に、ジムの中ですでに争いがあったんです」
リング上のみならず、ジム内での激しい「生存競争」もまた、ヨネクラジムの全盛期を支える原動力ともなっていたのである。