斬首刑とは、罪人の首を刃物により胴体から切断する刑罰だ。明治十五年(1882年)1月1日に新律綱領・改定律例に代わって旧刑法が施行されたため、最後の女性斬首刑者となったとされるのが、高橋お伝という女性死刑囚だ。
仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルで「明治の毒婦」と呼ばれた彼女は嘉永三年(1850年)、上野国利根郡下牧村(現・群馬県利根郡みなかみ町)に生まれた。慶応二年(1867年)、同郷の高橋浪之助と結婚し、横浜に移り住む。
だが明治五年(1872年)、浪之助が病気のために死去。その後、妾や街娼になり、逮捕まで同棲するならず者で仲買人でもある小川市太郎と恋仲になる。
だが、市太郎は博打好きで働かないため、借金だけが膨らんでいく。切羽詰まったお伝は、知人の古物商・後藤吉蔵に借金を相談。「愛妾になるなら金を貸す」と言われ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で同衾した。
ところが翌日になり、吉蔵が突然「金は貸せない」と言い出したため、お伝はこれに怒って剃刀で喉を切り、殺害。財布の中の金を奪って逃走した。
翌朝、不審に思った宿の主人が、死亡している吉蔵を見つけて警察に通報。その後の捜査で身元が割れると、お伝は強盗殺人容疑で逮捕された。
明治十二年(1879年)、東京裁判所で死刑判決を受け、市ヶ谷監獄で八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処されたという。この際、お伝が市太郎の名を呼びながら暴れたため、吉亮が何度も切り損ねたと伝わっている。
遺体は警視庁第五病院で解剖され、局部の標本が衛生試験場に保存された。
その後、東京大学医学部、戦時中には東京陸軍病院に渡ったとされているが、詳細は不明だ。
処刑の翌日から「仮名読新聞」「有喜世新聞」などが一斉に、お伝の記事を掲載。その後、お伝をモデルにした仮名垣魯文の小説や、河竹黙阿弥による歌舞伎が上演されて、大ヒットしている。
なお、東京・台東区にある谷中霊園の墓に詣でると、三味線が上達するというジンクスがあるという。
(道嶋慶)