松尾がボーヤを始めてほどなくすると、テレビ局にて立川談志の弟子でたけしの下へと移ってきた男と顔を合わせた。ダンカンだ。
当時、ダンカンは後にたけし軍団結成のキーマンとなるブッチャーブラザーズのぶっちゃあと親交があった。談志から「よそに修行に行ってこい」と言われたことをぶっちゃあに相談。すると、どこへ行きたいか問われて「好きな人って言ったら、たけしさんしかいない」と即答した。
ダンカンはたけしと自身を重ねてこう話す。
「根本的には世の中を信じてないよね、2人とも。俺なんか小学校入学してから阪神ファンなんだけど、昭和40年代なんていうのはみんな平等でってなっていた。でも、それから9年連続で巨人が日本一。平等でも何でもない。いまだに殿の言葉で一番信じているのは『人生に期待すんな』だもんね」
ぶっちゃあに背中を押されたダンカンは、談志に対して移籍先の希望として「たけし」の名前を出した。
すると談志が「ん? たけし!?」と声を発して、背後にあった酒が並ぶケースからブランデーの瓶を取り出した。殴られると思ったが、ラベルの部分にマジックで〈たけしへ こいつ頼む 談志〉と書き、「これ持ってけ」と渡してきたのは有名なエピソードだ。
続いて、たけしの門を叩いたのは柳ユーレイだった。
「ダンカンさんとは3カ月ぐらいしか違わないんじゃないかな。(弟子志願は)ニッポン放送前でした。20歳になる年だったと思う」
同82年、ツーツーレロレロの東と大森は「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ系)に出演し、カージナルスと知り合った。ガダルカナル・タカとつまみ枝豆のコンビである。
カージナルスは同番組で8週勝ち抜き、金賞を獲得する実績を残している。ところが、所属していた事務所が倒産。事務所のスポンサーをしていた筋から新宿の物件をあてがわれ、食い扶持を稼いでいた。カラオケスナック「ポプラ」だ。
そこへ東が入り浸るようになった。先のぶっちゃあも、毎晩顔を出してツケで飲ませてもらう間柄だった。
当時、ぶっちゃあは所属事務所「サンミュージック」のタレント・太川陽介らと野球チームを作っていた。
ある時、試合を組んでいたのだが、太川以下のメンバーがみんな来られなくなった。困ったぶっちゃあは、ダンカンが野球経験者だったことを知っていたため、連絡を入れた。するとダンカンの返事が、
「行きます。東くんも運動神経いいから、できると思います。松尾くんにも聞いてみますわ」
と、渡りに船。さらなるメンバーを求めて、ぶっちゃあはタカと枝豆にも声をかけた。こちらの返事も「早朝なら来られる」だった。
当日を迎えると、朝6時前の神宮外苑の草野球場に、なんとたけしも姿を見せた。たまたま「オールナイトニッポン」明けの日であり、飲んでから野球があると聞いて黙っていられなくなったのであろう。
試合は8時頃に終わったが、たけしが提案する。
「今から飲みに行こう。歌舞伎町に行けば何かあるだろう」
超有名人のたけしを含めたみんなで電車に乗って新宿に移動し、当時はおそらくその時間帯に唯一営業していたと思われるお好み焼き屋「ぱすたかん」で飲んだ。たけしは上機嫌だった。
「やっぱ野球はおもしれ~な。野球チーム作ろう」
そして、タカと枝豆にも声をかけた。
「お前らも一緒に入れよ」
「はい、わかりました」
タカ、枝豆はプライベートで野球に参加するというだけの関係だったが、たけしはその後も何度か「ポプラ」にも訪れてくれた。その際、
「あれだよな。あんちゃんたちも、どうせすることないんだろ? 今、こういう連中みんなでくだらないことやるけど、一緒にやりゃいいじゃねえか」
「ありがとうございます」
時は83年に入っていた。 枝豆が回想する。
「TBSで『たけしのお笑いサドンデス』があって、『始まるから来い』と呼ばれて、行ったら『何かやれよ』って。すでに『スーパーJOCKEY』(日テレ系)もスタートしていたから『ガンバルマン』をやっていた。見学に行って、入るようになって、トントン拍子だったね」