たけしはデビュー以来、歌手としても熱心に活動してきた。とりわけ多忙なスケジュールの合間を縫って、よりコンサートなどに力を入れるようになったのが84年以降だった。その前夜、オールナイトニッポンでこう漏らしていた。
「今のバックバンドをもうちょっとよくしたいんだよ‥‥」
同番組のヘビーリスナーであり、たけしのハイトーンボイスに魅せられて「この人のそばで音楽をやりたい」との想いを募らせていたグレート義太夫は、それを聞いた瞬間に「これだ」と思った。そして、すぐに自分が演奏している中でも、音がいいものを4曲選んでテープにまとめる。
軍団が野球をする球場に行き、たけしの前に立った。
「ドラムやってます。これ聴いてください」
中には曲名と電話番号を書いた手紙が入っていた。
それから1週間ほど経った日曜日の朝方、母親に起こされた。
「北野さんって人から電話だよ」
北野という知り合いを考えながら、面倒くさそうに電話に出ると、
「あ、たけしです。北野武です。テープ聴いたよ」
ドラムの演奏が誉められ、バンドのリハーサルに呼ばれた。そのスタジオでの2時間、何をしたかあまり覚えていないが、最後に「また連絡するからさ」と言われたのは覚えている。
ところが連絡がないまま“新生たけしバンド”はスタートした。義太夫は客という立場で、中野サンプラザでのコンサートを観た。終演後、楽屋に挨拶に行くと、たけしが聞いてきた。
「あんちゃんは、オイラが歌えそうな曲とか作ってないの?」
そんなものはなかったが、「ないです」と言ったら二度と会えない気がして、
「あ、あります!」
咄嗟に口走った。
「あ、そう。来週ちょっとバンドの会議があってさ、そん時、持ってきてよ」
「わかりました」
5日もなかったが、歌入りデモテープを必死で作った。後にたけしの楽曲となる「バラード」だ。
呼ばれたのは四谷のマンション。2人きりで曲を聴いたたけしは「いいねえ、オイラに歌えるかな?」と気に入ってくれた。
そして、もう部屋を出ようかという時だった。
「あんちゃんはさ、パーカッションとかできないの?ドラムできんだから、できんでしょ? パーカッションでバンド入んなよ」
84年3月1日の「PARCO PART3ビートたけしコンサート」から、義太夫はバックバンドの一員となる。
井手らっきょは82年からすでに井手博士として芸能活動をスタートし、太田プロに所属していた。しかし事務所はものまね界でもアイドルキャラで売り出したく、たけし軍団とは距離を置かせようとしていた。一方で井手本人は、テレビで裸になって騒いでいる軍団のことを羨ましがっていたという。そのため、高校野球で培った能力を発揮して、軍団野球に参加していた。ある日の試合後、井手はたけしに胸の内を話した。
「軍団に入りたいんですけど、事務所が‥‥」
「そっか、俺が事務所に言ってやるよ」
何日か経つと、たけしが言った。
「井手、軍団に入れるから」
ちなみに、たけしから「軍団はいいぞ~。人数多いしな、ぬるま湯だぞ~」と言われていたが、井手はすぐに熱湯に入れられていた。
こうして、晴れて10人のメンバーが顔をそろえた。以後、紆余曲折を経たが、たけし軍団の絆と青春はまだ続いている。