たけし軍団唯一のツッコミ役にしてまとめ役といえば、ガダルカナル・タカ(66)だ。「親方」と慕われる重鎮が、走り抜けた40年の歴史を振り返る。
「たけし軍団」って名前が付いたのはちょうど40年前。確か「アイドルパンチ」(テレビ朝日系)からだった。当時、たけしさんには、きちんと自分のやりたいことを理解して動いてくれる人が周りにいないと面白いことができないという想いがあって、一緒に番組の仕事をするようになった。
メンバーはガチガチのライバル同士ということでもなく、リーダーも決めていなかった。
当時は仕事以外に草野球も一生懸命で、年間130試合以上やってたもんね。プロ野球より多い(笑)。神宮で3試合やった後に、他の試合をやっているグラウンドにラッシャーとかが行って「試合しませんか?」って対戦を申し込んでたほどだよ(笑)。
たけしさんの仕事が終わるのは、早くて21時。そこから飯行って、酒飲んで、ウダウダやっているうちに「じゃあ(新宿の)バッティングセンター行こうか」ってなるの。そうこうしているうちに早朝5時半からの試合になるなんてことがしょっちゅうだよ。
「スポーツ大将」(テレ朝系)の時なんて、朝から地方の陸上競技場に連れていかれて、まず3000メートル障害を2本走って、次に800メートル、400メートルのリレーを2本ずつ。その後にバスケ、バレーを2試合ずつやって、最後に野球2試合みたいな感じだった。だいたい収録前日は朝まで飲んでるから、3000メートル障害1本目が終わったら、吐いているヤツがいたね(笑)。
ありがたいことに忙しくなって、一時期人気が爆発したもんね。毎週、ダンボール1箱ずつファンレターが届くなんてこともあった。それでビクターの小池さんがギリギリちゃんと歌が唄える4人(そのまんま東、大森うたえもん、つまみ枝豆、ガダルカナル・タカ)を選抜して「たけし軍団カウントダウン」ってグループまで結成したんだから。
恥ずかしいっていうのもあったけど、たけしさんが音楽好きで、コンサートツアーで全国を回っていたから、軍団の何人かが歌を出すのはOKかなとも思ってね。
普段はたけしさんとずっと一緒にいることが多かったけど初の冠番組「たけし軍団!ヒット&ビート」(テレ朝系)は、軍団だけの構成だった。放送が毎週日曜の午前中で、裏が「笑っていいとも!増刊号」(フジテレビ系)だったんだけど、何回か視聴率で勝ったことがあるんだよな。
そうした中で、3回ほどたけし軍団が家族を連れて海外に行く特番があった。番組が第2弾、第3弾ってなる中、目玉のネタがないってなったの。そうしたらダンカンが「タカちゃん結婚してくれない?」って。まあタイミングもよかったし、そろそろって思いもあったから「いいよ」って(94年、橋本志穂と結婚)。
軍団の十八番“集団芸”は、たけしさんから指示される方向性を見て、みんなで一生懸命やっていたらあのカタチになった。たけしさんには「誰がオチをやるのか。そのオチに向かうまで余計なところで目立とうとするな」と厳しく言われてね。でも、そういう考え方を早くに教えてもらっていたから、軍団同士で衝突することもなかったんじゃないかな。仲もいいんだけど、たけしさんに何か指示を出された時に、みんな叱られたくないから協力するんだよね。1人ができていないと結局、全員が怒られるから。タップダンスも全員で必死に練習したし。できないヤツには集中的に教えたり。練習場所を借りる金がないから、新宿中央公園の大理石の上でやって怒られたこともあった(笑)。
一度、「朝までたけし軍団!」(テレ朝系、04年放送)の企画で、軍団の解散式というのがあった。たけしさんの発案でね。結局、うやむやになったんだけど、一時期、たけしさんの中でもこいつらもそろそろ自立して何かやったほうがいいという思いがあったんだろうな。言葉の端々でそんなことを感じる時があったから。たけしさんの中で軍団がストレスになっていたのは間違いない。ずっとたけし軍団という荷物を背負ったままで来たからね。
だから事務所独立の話が出た時も、そもそもたけしさんの会社だったし、そこは自由にしてもらいたいし、俺らも負担になりたくないというのがあるから、「我々は我々で行きますから」という話はしていた。
今は仕事をやらせてもらえる間は何でもやりたいという気持ちがあって、できることは対応しようということで、YouTube「たけし軍団TV」も始めたわけ。お笑いという世界で生きていく中で、常に時代に即したものがないとダメだと思っているし、やる以上は今の人にも笑ってもらえるものをやりたい。
そして、たけしさんがこれは軍団とやるということになったら、いつでも対応できるようにしておきたい。そこに関しては、たけしさんにお任せだけどね。