日本野球機構(NPB)は5月11日に3、4月度の「月間MVP賞」を発表。セ・リーグ投手部門では、阪神タイガースの村上頌樹投手が初受賞した。
阪神投手の受賞は、昨年7月度の西勇輝以来だ。村上は「まさか取れるというか、そんなことを思ってシーズン開幕からしてなかったので、本当に嬉しいです」と喜びを爆発させた。
3年目の村上は、4月1日のDeNA戦に中継ぎで今季初登板し、1回を無失点。4月12日の巨人戦に今季初先発すると7回までパーフェクト投球という圧巻の投球を見せる。勝ち星こそつかなかったものの、「虎の村神様」の異名は、この頃から流布され始めた。
続く4月22日の中日戦では散発2安打無四球で、プロ初勝利を完封で飾る。そして4月29日のヤクルト戦でも、8回2安打で勝利投手に。結局、4月は4試合に登板し、25回を無失点の防御率0.00という無双状態で終えたのである。
開幕からの連続イニング無失点記録は、セ・リーグでは1963年(昭和38年)に阪神の中井悦雄が記録した31イニング。村上は次のヤクルト戦(5月9日)で6回までゼロを並べ、実に60年ぶりに肩を並べたのである。7回の先頭打者サンタナにソロ本塁打を打たれて新記録こそならなかったが、これまで1軍でほとんど実績がなかった村上の投球はアッパレのひと言に尽きる。
開幕前には岡田彰布監督すら予想していなかった、この偉業。実に60年ぶりという事実が、記録の難易度を物語っている。それでは、60年前にこの記録を打ち立てた、中井悦雄とはどんな投手だったのか。
「オールドファンでもその名前を記憶している人は、今ではほとんどいないでしょうね」(ベテランのスポーツライター)
それもそのはず、中井が現役時代にその活躍で注目されたのは、後にも先にもこの記録を達成した期間のみだったのだから。
その数奇な人生を紐解いてみる。中井は1943年(昭和18年)6月24日、大阪生まれ。大阪の野球の名門校のひとつである大鉄高(現・阪南大高)に進学。同級生にはのちに2000安打を達成するスラッガーの土井正博(近鉄、太平洋、クラウン、西武)がいた。60年、2年生の春の選抜甲子園に出場。1回戦の東邦戦でリリーフ登板した中井は逆転打を喫し、初戦敗退してしまう。
卒業後は関西大学に進学したが、中退して63年に阪神入団。まだドラフト制度がなかった当時、地元球団に入団するのはごく自然な流れだったようだ。
中井は初年度からウエスタンリーグで頭角を現し、13勝1敗で防御率、最多勝、勝率の投手三冠を獲得するも、1軍からはなかなか声がかからない。当時の阪神は、前年に村山実と小山正明の二枚看板の活躍で、2リーグ制後初の優勝を決めた。投手王国を誇っており、2軍で数字を残していたとしても、ルーキーが1軍で登板する機会を与えられることは難しかったようだ。
9月に入り、ようやく1軍に昇格した中井は、9月7日の巨人戦に敗戦処理として初登板。王貞治から三振を奪うなど、1回を打者3人で抑えている。9月18日の大洋(現・DeNA)戦は8回から登板し、2回無失点。味方がサヨナラ勝ちして、プロ初勝利を手にした。
すると翌19日の大洋戦で先発登板し、1-0で完封勝利を挙げたのだ。快進撃はこれでも止まらない。9月24日の国鉄(現・ヤクルト)戦も2-0で完封勝利。29日の中日戦も6-0で完封と、なんと3試合連続の完封勝利を達成したのだった。10月17日の広島戦の2回に本塁打を浴びるまで、デビューから31イニング無失点の記録となったのである。中井の連続イニング無失点記録は「デビュー戦からの」という特記つきだったというわけだ。
こうしてプロ1年目に遅ればせながら活躍し、将来を期待された中井だったが、今ではほとんどのファンの記憶にないのはなぜなのか。
彼の人生はこの後、運命に翻弄されることになってしまうからだ。翌64年、交通事故に遭った中井は伸び悩み、11試合登板でわずか1勝に終わると、65年は1試合のみの出場で自由契約に。66年オフに阪神に復帰するが、登板することなく、69年からは西鉄(現・西武)へ。主に中継ぎ投手として奮闘したが、71年限りで現役引退となる。実働6年、109試合登板で9勝6敗。完投も完封も、プロ1年目の3が全てであった。
その後、プロ野球界から離れていた中井は、79年に阪神の2軍投手コーチ補佐として現場復帰。あの「江川事件」で、巨人のエース・小林繁が阪神に移籍してきた年である。小林が巨人相手に連勝を続けるその年の8月23日、中井は心不全で急死してしまったのだ。享年36。
その死は、翌日のスポーツ新聞の片隅で小さく報じられただけだった。華々しいプロデビューを飾った投手としては、なんとも寂しい最期だったのである。
60年ぶりに中井の名を発掘するきっかけとなった村上が、先輩の分も末永く活躍できる投手になってくれることを願う。
(石見剣)