テリー 最近は、短歌の方は? 今もツイートしてるんでしょう。
ウド そうですね。でも、本を出したら浮かばなくなりましたね。もともと1日1個必ず作ろうとか義務感でやってたわけじゃないんですけど。
テリー 本を出したら満足しちゃった?
ウド そうかもしれないです。僕の短歌に誰かの背中を押すほどの力強さはないと思いますけど、読んでくれた方が少しほっこりしたり、ほのぼのしてくれたらいいなと思った時に色々と短歌が浮かんでたんですけど、そういう短歌は、本にしたことで一区切りついて、今は「自分の夢がひとつかなってよかったな」という思いですね。
テリー それとこの短歌、ウドちゃんは自分のために書いてたところがあるよね。
ウド ああ、そうですね。さすがテリーさん!「自分のことを少し励ましたい」ということもあって浮かんでた部分もあると思います。
テリー だから、また時間が経ったらこういう短歌を書きたくなるかもしれないけど、とりあえず今は満足したわけだ。じゃあ、これからはどうするの?
ウド どうしましょうか。
テリー いや、知らないけどさ(笑)。でも、今回の本はすごく勇気をもらえるし、元気が出るポジティブな本でしょう。逆にネガティブなウドちゃんを出すのはアリかもね。
ウド ああ。僕、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」という詩を読んだ時に、別に元気が出るような言葉じゃないのに、なぜか自分に寄り添ってくれるような気持ちが伝わってきて、すごい感銘を受けたんです。でも、自分はそれができないような気がするんですね。
テリー どうして?
ウド なぜなら、本当の自分はいつも49対51みたいな感じなんですよ。49がネガティブで、51がポジティブで、いつもギリギリでバランスを取っているんです。自分の中のネガティブを、建前で包み込むようにして見えないようにしているんですね。
テリー へぇ、哲学的だなぁ。
ウド ですから本来の自分は、純真でも清らかでもないですし、もっとあざとくて、非常に汚れてると思います。それを建前という、もう1人の自分でカバーしてるので、いつももう1人の自分と歩いてるような感じです。
テリー だから、それは活字にしたくないってこと?
ウド 怖いですね。自分以外の人の言葉は受け入れられますけど、自分の言葉でそれを表に出しちゃうと、そっちの方に自分が引っ張られちゃうような気がします。
テリー そうか、それはわからなくもないな。最初に文章がすごく長くなるって言ったでしょう。長文を書くっていうのはどう?
ウド 逆に長く書く?
テリー うん。
ウド ええーっ、テリーさんムリですよ。自分でも何を書いてるのかわからないんですから。
テリー いや、それがおもしろいんじゃないかな。例えば、この本の中に「人間は 多くを望む 限りなく だけど持ち物 限りがあるのだ」って書いてあるよね。この続きを書いて長くしたっていいじゃない。それで直木賞と芥川賞、目指してよ。
ウド いや、テリーさん、そんなの誰も望んでませんから。この短歌も誰も望んでないんですけど。それを本にできただけで十分ですよ。
◆テリーからひと言
例えば肉屋さんのエピソードなんて小説にできそうだよね。ムリなんて言わずに新しい分野を切り開いてほしいね。