新旧天才の対局が決まった。藤井聡太七冠は6月20日、史上初の八冠奪取に向けて、残るタイトル「王座」への挑戦権をかけた村田顕弘六段とのトーナメント2回戦に臨み、崖っぷちから終盤に大逆転して、準決勝に駒を進めた。次は6月28日、羽生善治九段・将棋連盟会長と、負けたら終わりの一番勝負に挑む。
このトーナメントに先立つ6月17日、千葉県柏市で行われた叡王戦イベントで、将棋AI「PONANZA(ポナンザ)」を開発した東大将棋部OBの山本一成氏と対談した際に、
「(AIとの対局で)形勢判断を大きく伸ばすことができた。普段は活用して勉強するのがメイン」
と話していた藤井七冠。山本氏に言わせれば「藤井叡王の方が素早くAIよりもいい手を発見している状況」だそうで、王座戦トーナメント2回戦終盤の、まさかの逆転劇も、日頃の研鑽の賜物だろう。
その藤井七段が「息抜き」として挙げたのは「睡眠」だ。その日の対局を振り返ると23時まで寝付けないこともあるが、常に7時間から8時間の睡眠時間を確保し、二度寝をする。目覚まし時計をセットするだけでは起きられず、家族に起こしてもらうのだと、過去にも語っていた。
自宅が愛知県にある藤井七段にとって、東京と大阪の将棋会館は「アウェイ」。各タイトル戦では日本各地の名門旅館や会場を巡るため、泊まり慣れた「定宿」も持たない。ホームはなく、慣れない寝具で常に敵地(アウェイ)を回って最高のポテンシャルを保てるのだから、朝起きても疲れが残る中高年には、藤井七冠が殿上人にしか見えない。
同じ時代に現れた超人、エンゼルスの大谷翔平も、休日の過ごし方を「6時間の筋トレと10時間から12時間の睡眠」と答えている。
睡眠をめぐっては「12時間以上寝る人はボケる」「6時間しか眠らない人の寿命は短くなる」「昼寝をすると早死にする」などの迷信やインチキ科学がはびこっている。
睡眠の専門家とうそぶく医師達が「睡眠のインチキ医学」を吹聴するおかげで、この3年、新型コロナで医療現場や救急現場が、天地がひっくり返るような多忙を極めた深夜や早朝に「眠れないから話し相手になって」と119番や保健所に迷惑電話をかけてくる中高年は、1エリア10人どころでは済まなかった。
眠れないというだけで救急車を呼ぶ迷惑老人だけが原因ではないが、今年の東京消防庁管内の救急車の出動件数は、過去最多(87万件)だった去年を上回るペースで増加。年末には救急車が横転する自損事故も起きた。あまりの多忙で寝る時間もなかった救命救急士の居眠り運転、とみられている。不眠を訴える老人が救急隊員の睡眠時間を奪うブラックぶりだ。
12時間以上眠っている大谷がボケるはずもなく、6時間のハードな筋トレをするから10時間以上の睡眠と休養が必要になる。「文化系男子」に見える藤井七冠も運動神経抜群で、50メートル走6秒台と、プロ野球選手の平均値をマーク。プロ棋士になったと同時に、体幹を鍛える筋トレを始めた。藤井七冠は対局のない日、一日中座りっぱなしでAI相手に将棋を指しているのではなく、しっかり体も鍛えているのだ。
家に一日中引きこもって散歩や運動もしなければ、夜眠れないし、朝早く起きてしまうのは当然だろう。無理のない範囲での有酸素運動と軽い筋トレは血流を促進し、血圧を下げる効果がある。
「睡眠時間の長短で病気になる」のではなく「病気が隠れているから眠れない、あるいは眠りすぎる」だけのこと。睡眠に一喜一憂する前に、日中の生活を見つめ直した方がよさそうだ。
(那須優子/医療ジャーナリスト)