大山ヒルズを訪れた今夏、甘えるようにスリ寄ってくるキズナの姿を見て「かわいい」という感情が芽生える。そして「もうこの仕事は無理だな」と。落馬負傷からの復帰を諦め、9月16日に騎手引退を表明した佐藤哲三(44)には、天才騎手とのひそかな絆があった。
左上腕骨、左肩甲骨、右大腿骨、腰椎、左足関節、右肘関節、右肋骨など、頭以外のほぼ全身に骨折などの大ケガ。12年11月24日の京都10レースでの落馬は壮絶な事故だった。スポーツ紙デスクが回想する。
「淀名物の坂を下った4コーナーで落馬し、コース柵の支柱に激突。腕も脚もあらぬほうを向いてしまうほどの骨折で、生死さえ危ぶまれ、最初の手術は12時間以上もかかるほどでした」
6回の大手術を受け、2年近くに及ぶ壮絶なリハビリ生活を送るも馬に乗れる体には戻らず、タップダンスシチーやエスポワールシチーなどでGI6勝、JRA通算938勝(重賞45勝)をあげたターフ界のいぶし銀は、ステッキを置く決意をした。
ダービー馬キズナを新馬戦から連勝に導いたのは佐藤。落馬事故はその直後のことであり、のちに乗り替わったのは武豊(45)だった。栗東担当記者が話す。
「キズナの母キャットクイルは名牝ファレノプシスの母とはいえ、すでに19歳の高齢馬だっただけに、データ的に不安視する声も聞かれたものでした。一方で、騎乗、育成技術双方で理論派として知られ、アーネストリーで宝塚記念を制した実績もある佐藤は、オーナーサイドからは一騎手でなく腕利きのホースマンとして全幅の信頼を得ていた」
乗り替わりに際しても、佐藤の意見が尊重されたという。担当記者が続ける。
「常々、『1頭1頭の先を見据えて乗ることが大切』と話していただけに、目先の1勝にこだわらず、同じ騎手が乗り続けることを第一に考えていたようで、真っ先に武をイメージしていたそうです。決定した時も、『ユタカさんでホンマよかったわ』と安堵していた。今年春の天皇賞で、検量室前で2人が談笑しているのを見た時、キズナには2人で乗っているんだなと感じました。そんな光景、見たことがなかったから」
レースに影響するからと、特定の騎手との交流を持たない主義の佐藤には実に珍しい行動だったのだ。
孤高の仕事人・佐藤と武は対極の感もあるが、実は共通項も多い。栗東トレセン関係者が言う。
「騎乗法が頑固で、乗り馬の過去の成績とレースぶりを全て頭にインプットしている点はそっくり。武は競輪、哲ちゃんは競艇が趣味で、馬券を握りしめるファンの思いを大事にする」
佐藤が引退を表明した翌日、武はブログで、
〈お疲れ様でしたと言うと、「騎手は諦めましたが、馬に乗るのを諦めたわけじゃないです。頑張ってリハビリを続けて、乗れるようになったら調教師を目指そうかと思っているんです」と、いかにも彼らしい前向きな言葉が返ってきました〉
と明かしている。
「会見では調教師という選択肢を『心の片隅で』と言って、記事にされることを嫌がっていましたが、本音は別。武も『待ってるぞ』という励ましを込めて書いたんです」(前出・スポーツ紙デスク)
引退式は10月12日、京都競馬場で行われる。