新年の最初の日、朝日新聞は「『雅子さま 懐妊の兆候』の記事について」という記事を、東京本社編集局長署名で掲載する。
皇太子ご夫妻を「公人中の公人」としながら、こう論じたのだ。
〈今回は慶事の兆しであることを考え、表現を抑制して報道することを決断しました。社会的関心事について事実を早く正確に把握し、伝えていくことは報道機関の基本的な使命です〉
しかし、朝日新聞は「皇室」を「公人中の公人」「社会的関心事」と主張しているにもかかわらず、スクープ以外は目立たないところで報じているのだ。
「私は以前、朝日新聞の一年分の皇室報道を全部調べたことがあります。皇室に動きがあると、だいたい社会面の最後の面(第三社会面)の最下段左隅、強盗事件などの下に置かれています。他紙は、配慮して上に持って行こうとします。皇室に対する徹底的な軽視と、潜んだ悪意というものを感じます」(高森氏)
皇室ニュースの扱いや、「公人」「社会的関心」を理由にした朝日の禁断スクープ報道。これらは朝日の政治的なスタンスから来るものではなく、51年前に起きたある事件が影響しているのではと指摘するのは、評論家の渡邉哲也氏だ。
「第三社会面というのは、事件などでこぼれたニュースなどに使うところです。つまり朝日新聞は皇室をニュースの対象としていないということになります。1963年に起こった『村山事件』の影響があるのではないでしょうか」
当時、朝日新聞社は創業者の一人である「村山家」の故村山長挙氏が社主(オーナー)で、社長だった。63年3月、同社らが主催した「エジプト美術五千年展」の場内で“事件”は起こった。
その日訪れた昭和天皇に故村山夫人が近づこうとしたところ、宮内庁職員に制止されたことで転倒。骨折したと夫人は主張し、編集部に宮内庁の糾弾キャンペーンを指示したという。
「この事件は、その後、朝日の内紛に発展します。編集部が夫人の言い分をおかしいと判断。最終的に社長は更迭され、朝日新聞の経営権を失うことになります。朝日はどちらかといえば親皇室の論調でしたが、この糾弾キャンペーンをきっかけに、現在の反皇室的な論調になったのではないでしょうか」(渡邉氏)
06年にも、朝日新聞は皇室に“もの申して”いる。
「ヒゲの殿下」として親しまれた寛仁親王が毎日新聞や文藝春秋に、女系天皇についての私見を述べた。そして朝日新聞は、「黙れ」と言わんばかりの社説を掲載したのだ。
「寛仁さま 発言はもう控えては」
朝日新聞社長室で、抗議の自決を遂げた故野村秋介氏の筆頭門下生である「二十一世紀書院」代表の蜷川正大氏が、朝日の皇室報道を分析する。
「言論の自由を旨とする新聞が、皇室に対しては言論を封殺する。人権を声高に主張する新聞ですから、ご皇族も民間人も同じというスタンスでしょう。一方で、『ガン』『ご懐妊兆候』の報道では、人権を毀損している。常にイデオロギーを優先させるので、人の痛みや苦しみなど理解できないのです」
終わりなき皇室との因縁は、今後も続く──。