91年に発表された高木侍医長の手記「昭和天皇最後の百十一日」。名指しこそ避けながら侍医長は、朝日の「ガン」報道について次のように述べている。
〈重体であるとか、危篤であるとかいうのは、あまりに軽率といいますか、事実と違っていました。(略)言ってよいこと悪いことの区別もつかないのか、その時期の判断もできないのかという憤りの気持ちでした〉
特に朝日新聞が行った「下顎呼吸」の部分については、悪意さえ感じていたようである。
〈正しく報道するのならまだしも、この場合、はっきり申し上げて、まったく事実と異なります。まるで今すぐにでも亡くなられるような書き方をしており、誤報などというレベルではありません〉
当時の朝日新聞に“罪の意識”などはなかったと語るのは、高森氏だ。昭和天皇の「ガン」報道後、朝日新聞本社に直接抗議に訪れたという。
「社会部長と担当デスクに面会したのですが、先方はノラリクラリと言い逃れに終始しました。『今後は、紙面を作る際に、このような声もあったことに配慮する』といった程度の、木で鼻をくくったような回答でした」(高森氏)
皇太子殿下(現天皇陛下)が、昭和天皇の病名を告げられるのは、10月16日のことだった。実録ではこう記録されている。
〈公務を終えて参殿の皇太子と(昭和天皇が)御対面になる。その後皇太子は、侍従長徳川義寛・侍医長高木顕より、天皇の御病気が癌(がん)であること、また天皇御自身にはその旨を告知していないことの報告を受ける〉
皇太子殿下は、その説明をただ黙ってお聞きになられていたという。
実録は昭和天皇が生きた時代を記録したものだが、朝日新聞は平成になっても皇室報道で問題を起こす。99年12月10日、今度は雅子妃殿下のプライバシーを無視して、夕刊1面でこう報じたのだ。
〈雅子さま13日にも検査〉
〈懐妊の兆候宮内庁病院で〉
当時、多くの国民が妃殿下の懐妊を心待ちにしており、報道は世間を驚かせた。
「昭和天皇の時と同じ非常識さです。妊娠初期の不安定な時に報道したわけです。一般的に安定期に入ってから明らかにすることを、一方的に公表されたということ。ご自身のデリケートな問題をマスコミにリークする人間が周囲にいるということ。2つのショックに妃殿下は直面させられたのです」(高森氏)
宮内庁が過熱報道の自粛を呼びかける中、朝日はみずからの報道を紙面で自画自賛する。
〈「雅子さま懐妊の兆候」テレビはどう伝えたか〉
と題した記事で、いかにこのスクープに多くのメディアが動いたのかを報じたのだ。しかし、12月31日、妃殿下は流産してしまう。
「懐妊報道が流産につながり、のちの長いご病気の引き金を引いたと考えます。また、国民の妃殿下に対する『公務をさぼっている』という心ないバッシングが繰り返されるようになる、最初の契機になったと考えています」(高森氏)
このあと、朝日新聞には読者から390件の批判が寄せられる。そして、翌日2000年1月1日に、批判に対してこんな記事を掲載するのだ。