〝燃える闘魂〟プロレスラー、アントニオ猪木が亡くなって10月1日で1年。猪木の闘いぶりに勇気を与えられたファンたちは今も喪失感から抜け出せていない。なぜ、今もって猪木に魅了されるのか。それは「プロレスは戦いである」と、強さを極めた生き様にある。今、改めて強さの真実を探ろう。
1976年6月26日に日本武道館で行われた、アントニオ猪木VSプロボクシングWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの異種格闘技戦。当時は「世紀の茶番劇」とも言われたが、後年、高く評価されだした。
対戦相手のアリは晩年、総合格闘技最高峰の舞台・UFCのダナ・ホワイト代表にツイッターで「俺が総合格闘技の元祖だって知っているか?」と、猪木戦の写真とともに投稿。ホワイト氏は「あなたこそが、マーシャルアーツの元祖です」と返信した。同試合こそ総合格闘技の礎と呼ばれるようになったのだ。
60年4月、ブラジル遠征中の力道山にスカウトされて日本プロレスに入門した猪木。この段階では兄に空手を習った程度で、本格的な格闘技経験のない17歳の少年だった。その猪木がアリ戦を実現し、名声を手に入れるまで上り詰めたのだ。
猪木の戦いの歴史は、東京・大森の力道山宅に住み込むことから始まった。
そこで生活を共にし、後にジャイアント馬場率いる全日本プロレスで活躍した力道山次男の百田光雄氏が証言する。
「私にとっては、5つ年上で、優しく無口なお兄ちゃん。忘れてしまった日本語があり、辞書を持って日本語を勉強していたり、本気でアゴの長さに悩んでいた姿が印象に残っている。練習に関しては、とにかく真面目。17歳の少年にとって当時の練習は過酷でした。普通にヒンズースクワットを3000回やっていましたから。父はその様子を柱の陰から見ていを決めていると樫の木刀で選手をブン殴る。その木刀が折れたりしましたから、今のレスラーだったら誰も残らないですよ」
60年9月30日に猪木と同日デビューした馬場は、自伝の中で「プロレスの練習は、ぶっ倒れてから始まるものだと知った」と語り、大木金太郎と同期3人が並んでスクワットをやった時には、3人の汗で水たまりて、ナマクラ(怠け)ができたという伝説が残っているほどだ。
体ができてくるとスパーリング、関節を極め合うガチンコが始まる。当時の日プロは各分野の最強エキスパートが集まり、どんな腕自慢でも最初はみなからボコボコにされた。
「猪木さんも、レスリング部出身の吉原功さんや元プロボクサーで柔道五段の大坪飛車角さん、父にプロレスの基礎をコーチした沖識名さんあたりに、プロレス特有の実戦テクニックを叩き込まれていた。今の総合格闘技の技術そのものです。でも、とにかく練習熱心なので、2、3カ月すると逆に極めだしました。当時の日プロでは体が大きい方だったというのもありますが、とにかく負けん気が強くて、ガチンコの練習をすると、そのセンスが光っていましたね」
その負けん気の強さを後押ししたのが馬場のアメリカ遠征。先を越された悔しさ、コンプレックスがバネになり、「馬場に負けたくない」という一念で、闘志をむき出しにしてガチンコの練習に励んでいたのだという。