敗戦後の日本人を勇気づけたのが「プロレス」である。人々は街頭テレビに熱狂し、力道山の空手チョップに声援を送った。そしてジャイアント馬場、アントニオ猪木と続く繁栄の裏面史を、最年長レスラー、グレート小鹿が証言する。
── 日本プロレスに入門されたのは、まだ力道山が存命の頃ですか。
小鹿 そう、俺が相撲を辞めて面接を受けたら、力道山先生がいたよ。入門したいと言ったら「どこの部屋だ?」と聞かれ、俺が「出羽海部屋です」と言ったらうれしそうでね。先生と気が合う力士が多かったらしく、それであっさりOKになったよ。
── 当時の日本プロレスは荒稽古で有名でした。
小鹿 まずスクワットは1000回が基準。そこに先生が木のビール箱を持って来て、マンモス鈴木さんに殴りかかるんだよ。先生が「痛いか?」って聞いて「痛くないです」って言ったらもう1回殴る。鈴木さんが「痛いです」って言っても「バカヤロー!」で殴られる。猪木さんはそれ以上にシゴかれたから、見ていてかわいそうだったね。
── 63年5月9日にプロレスデビューを飾りましたが、その約半年後に「力道山刺殺事件」が起きています。
小鹿 先生が住んでいた赤坂のリキアパートに駆けつけると、ちょうどパトカーが来ていて、無線で話をしているんだよ。古物商から警察に通報があって、先輩のミツヒライさんとマシオ駒さんの両名が日本刀を買い求めに来たと。
── それは刺殺に対する「報復」のためですか。
小鹿 そういうことだろうね。結局は買えなかったから、大事にはならずに済んだけど。亡くなるほんの2日ほど前の「東京スポーツ」で、先生は「次のシリーズは出る」って宣言したやさきの事件だったからね。
── 大黒柱を失い、日本プロレスにも暗雲が漂いました。
小鹿 俺もまだ21歳だから目の前が真っ暗だよ。ただ、そこから馬場さんが凱旋帰国したこともあって、第2次黄金期に突入だ。
── 日本プロレスの「曲がり角」は、71年に起きた「猪木のクーデター未遂事件」ですね。結果的に猪木は追放されてしまいますが。
小鹿 その前の年に俺はロスに遠征していて、そこで猪木さんをひいきにしている日本料理店で会う機会があったんだよ。朝6時まで飲んで、なぜレスラーが何十人もいるのに、自社ビルを建てられないのかと、猪木さんは言ってたよ。
── 日プロ幹部の放漫経営であるということですね。
小鹿 猪木さんに言わせると、西野バレエ団は由美かおるとか何人かのスターでビルを2つも持っていると。その改革案には賛成したけど、猪木さんが会社に連れてきた木村昭政なる会計士が信用ならなかった。
── つまり、乗っ取り計画だった。そして臨時選手会の場で、クーデターが未遂に終わりました。
小鹿 俺が口火を切ったんだよ。猪木さんに「そこのおっさんは誰ですか?」と。そんなこんなで猪木さんは除名され、新日本プロレスの旗揚げにつながった。
── 一方で、猪木とたもとを分かった馬場も全日本プロレスを設立し、小鹿さんものちに合流しました。
小鹿 ただ、俺が言うのは「猪木さんは和食で、馬場さんは洋食」ってこと。猪木さんはどこかで義理人情がわかるけど、馬場さんは好きなものしか口にしない。それが「和食」と「洋食」の違いだよって。
── 小鹿さんは今も現役でリングに上がっていますね。もし日本プロレスが続いていれば、どうなっていたんでしょうか。
小鹿 たぶん、力道山先生が作ったゴルフ場で芝刈りの仕事をやっている(笑)。あの人はプロレスを日本に持ち込んだこともそうだけど、マンション経営など、常に先見の明があったね。それがまた戦後の日本人を明るくさせた理由だよ。