アントニオ猪木の感性に陰りが見えた1987年12月27日の両国国技館暴動事件、前田日明解雇に連動する形での高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫(現・優光)のUWF勢の退団と、87年暮れから88年春にかけて新日本プロレスは再び激震に見舞われた。
そうした中、4月22日の沖縄・奥武山体育館大会の試合後に行動に出たのが藤波辰巳(現・辰爾)だ。
この日のメインは4月27日の大阪府立体育会館、5月7日の有明コロシアムにおける猪木VSビッグバン・ベイダー2連戦の前哨戦として、猪木&藤波とベイダー&マサ斎藤のタッグマッチが組まれ、ベイダーが猪木をいたぶり続けて、最後は反則負けという後味の悪い試合になった。
試合後、重苦しい空気に包まれた控室で「ベイダーとシングルでやらせてください。猪木さん、東京と大阪の2連戦は無理です、はっきり言って。俺らは何なんですか? 俺らは?」と藤波が猪木に訴えた。
これに猪木が「じゃあ、命賭けるか、命を。勝負なんだぞ」と猪木が応えたことで口論になった。
「(猪木ひとりのエース体制が)もう何年続いた!? 何年、これが!」(藤波)
「遠慮なんかすることねぇって。リングの上は闘いなんだからよ」(猪木)
「遠慮してるんじゃないです。これが流れじゃないですか、新日本プロレスの! そうじゃないですか!?」(藤波)
「やれるか、ホントに。お前!」(猪木)
初めはベイダーとの一騎打ちを直訴した藤波だが、遂に胸に秘めていた新日本の体制そのものへの不満を爆発させたのである。
このやり取りの後、猪木が藤波の頰を張ったが、その何倍もの力で猪木の頰を張り返した藤波は、覚悟を示すように救急箱からハサミを取りだして前髪を自ら切ると「やりますよ。俺は負けても本望ですよ。やらせてください。大阪で俺は進退を賭けます」と宣言。
翌23日の宜野湾大会前、ランニング中に左足の小指を骨折した猪木がIWGPのベルトを返上したことで、世代交代に向けて藤波の飛龍革命がスタートした。
藤波が意識していたのは、全日本プロレスを活況に導いた天龍革命である。
「今、プロレス界は大きな危機に直面している。そんな中にあって、天龍は自分の体を張って、あれだけ話題を作り、プロレス界を盛り上げてくれている。こっちもやらなきゃいかんという刺激を受けたし、そうしなかったら彼にも、そしてファンにも申し訳ない」と、藤波は語った。
猪木の負傷欠場で4.27大阪は藤波VSベイダーに変更となり、藤波がリングアウト勝ち。5.7有明は藤波とベイダーの間でIWGPヘビー級王座決定戦が行われ、反則勝ちという不本意な結果ながらも藤波がIWGP初戴冠に成功した。
しかし猪木が黙ってエースの座を藤波に譲るわけがない。復帰に向けてのトレーニングのため6月16日に渡米。カナダ・カルガリーで武者修行中の橋本真也をロサンゼルスに呼び出してトレーニング・パートナーにすると同時に「お前らで藤波、長州と勝負してみろ!」と橋本、カナダ・ニューブランズウィックで武者修行中の蝶野正洋を武藤敬司がいるプエルトリコに向かわせ、闘魂三銃士を結成させた。
ソノ気になった3人は7月29日の有明コロシアムのワンマッチだけ凱旋して、藤波&木村健吾(現・健悟)&越中詩郎と対戦してやりたい放題の大暴れ。激怒した藤波が反則負けという意外な結末になった。
猪木は猪木できっちりと自身の復活に向けてのドラマ作りに着手。7月16日の長野スケートセンターで84日ぶりに復帰を果たすと、いきなり藤波のIWGPに挑戦するのではなく、IWGP王座挑戦者決定リーグ戦にエントリーした。
初戦で長州力に敗れるという波乱があったものの、残りの木村、マサ、ベイダーには全勝して優勝すると「約束通り上がってきた。あとは勝負だ」と藤波に宣戦布告。
88年8月8日の横浜文化体育館における両雄の対決は、今も語り継がれている名勝負だ。大技の攻防があれば、アマレス流のグラウンドでのせめぎ合いなど、ストロング・スタイルの集大成とも言うべき攻防がノンストップで展開され、気づけば60分時間切れ引き分けという大勝負だった。
試合後には長州に肩車された猪木と、越中に肩車された藤波が涙を見せながらガッチリ握手。猪木自らIWGPのベルトを藤波の腰に巻いて防衛を称えた。
この一戦で師弟闘争は一区切りとなったが、振り返れば88年の春から夏にかけて、飛龍革命がなければ新日本は話題的にピンチだったに違いない。
その過程で、90年代の新日本黄金時代を築く闘魂三銃士が誕生したことも大きかった。
藤波は新日本の救世主となり、その思いを受け止めて大きなドラマを作ったのは紛れもなく猪木だった。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。