1987年の日本プロレス界は、長州力の全日本プロレス・マットから新日本プロレスへのUターンを巡る両団体のリング外の暗闘が軸になってしまったが、全日本にブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーがUターンすることを新日本が容認することで長州の契約問題が解決。10月には両団体が純粋に、リング上の戦いで勝負することになった。
まず新日本では、アントニオ猪木が前代未聞の決闘をぶち上げた。
当時の新日本マットは新日本正規軍、前田日明率いるUWF、春にUターンしてきた長州率いるニュー維新軍(リキ・プロダクション)の3軍がひしめき合う中で、世代交代を叫ぶ長州、藤波辰巳(現・辰爾)、前田らのニューリーダーと猪木、マサ斎藤、藤原喜明らのナウリーダーという軍団を超越した世代抗争が勃発したが、マサは「アメリカを主戦場としてきた俺には世代闘争なんて関係ない。俺自身のターゲットはあくまでも猪木だ」と猪木に対戦を迫り、それに対して猪木が巌流島を決闘の場として指定したのである。
慶長17年(1612年)4月13日、剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行ってから375年‥‥かつて力道山VS木村政彦の激突が「昭和・巌流島」と呼ばれたが、本当の意味での〝プロレス版・巌流島の決闘〟が実現することになったのだ。
観客不在の決闘だから興行収益はない。ビジネスを度外視して、プロレスファンだけでなく一般の人たちの目も向けさせる発想は猪木ならではのもの。
だが、この決闘の発想には、猪木の個人的な事情も大きかった。それは女優・倍賞美津子との離婚だ。
ブラジルでの事業の失敗による多額の借金、女性との密会現場を写真週刊誌に撮られるなどのスキャンダルもあり、離婚の覚悟はできていたが、公になるのは耐え難いことだった。
「どうせ死ぬなら、自分らしく、闘って死にたい!」と思い詰めた挙句に浮かんだのが、巌流島の決闘だったのだ。
10月2日に離婚届を提出した猪木は、翌3日に下関入り。そして決戦当日の4日を迎えた。試合開始は「日の出」とされ、お互いのプライドがルール、坂口征二と山本小鉄が立会人を務め、「自力で決闘場の門を出た方が勝ち」という文字通りの決闘である。
実際に試合がスタートしたのは17時7分。日が沈むとかがり火が灯され、その火をめがけて猪木がマサを叩きつけるという過激な場面も生まれた。
猪木の魔性スリーパーにマサが「ウワーッ!」と断末魔のような悲鳴を上げて崩れ落ち、2時間5分14秒で決着がついた。
翌5日には、後楽園ホールで新日本の「闘魂シリーズ」が開幕。テレビ朝日はこの日から放映日が火曜夜8時から月曜夜8時に復帰ということで、前日の巌流島の決闘と、この日からテレビ登場解禁になる長州の試合の生中継をドッキングさせたスペシャル番組を組んだ。
長州の相手はファン投票で1位になった藤波、2位の前田のどちらかとの対戦をコイントスの表か裏かで決めることになり、その場で藤波に決定。
約3年ぶりの藤波VS長州は、静かな立ち上がりだったが、徐々に両者の感情が高まって22分10秒に両者フェンスアウトという不透明決着に。当時は場外フェンスの外に出てはいけないというルールがあり、両者フェンスアウトはファンが最も嫌う結末だった。
観客からの延長コールで行われた再戦も、わずか2分11秒で再び両者フェンスアウト。フェンスアウトなしという特別ルールで再々戦となったが、右腕を痛めた藤波が戦闘不能になって11分46秒に無効試合の裁定が下され、ファンが待ち望んでいた藤波と長州の「名勝負数え唄第2章」は多難なスタートとなった。
なお、猪木の離婚がニュースになり、世間を騒がせたのは巌流島の決闘から6日後の10月10日だった。
一方の全日本は、天龍革命によって完全に息を吹き返した。また天龍革命の成功は、慎重居士と言われた馬場の意識も変えさせた。それまでの全日本は、時間をかけて一騎打ち実現という手法だったが「ファンが観たいものをやる!」と宣言した馬場は、革命勃発わずか2シリーズ目の8月31日にジャンボ鶴田VS天龍源一郎の鶴龍対決を敢行。
リングアウト勝ちながらも天龍が鶴田と肩を並べると、時間を置かずに10月8日の日本武道館で鶴龍対決第2章を実現させた。
馬場は10月1日にキャピトル東急ホテルにおける「全日本15周年記念パーティー」で「15年間の結果がここにいるレスラーです」と胸を張ったが、鶴龍対決は15周年記念にふさわしい試合として自信を持って提供したものだ。
試合はUターンしたブロディの乱入で鶴田がエキサイトして不本意な反則負けを喫したが、内容はハイレベル。「話題性の新日本、内容の全日本」と言われるようになっていく。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。