それは新宿・歌舞伎町だった。高倉らが「幸福の黄色いハンカチ」のロケをしていると、場所柄、スタッフがチンピラにからまれている。さらに高倉にもチンピラは容赦なくからむ。と、その瞬間──、
「たこがヌーッと出てきてフッと動いたら、チンピラ全員が地面に倒れていた。元日本フライ級王者で、この映画でも健さんとのケンカシーンでキレのある動きを見せているが、やはりジャンパーの恩義を忘れていなかったんでしょう」(映画記者)
この場面は共演の武田鉄矢も目撃しており、感動したと語っている。
高倉は「ブラック・レイン」(89年)で共演した松田優作など、気に入った相手には時計をプレゼントすることで有名だ。俳優・石倉三郎は、その栄誉に2回も浴している。
「結婚した時にスイスのコンスタンチンをいただいて、名前が売れてから初めて共演した『忠臣蔵 四十七人の刺客』(94年)では、ロレックスをいただきました」
さらにネーム入りのペンダントもプレゼントされた。そこには、役者としてのこんな教えが彫ってあった。
〈芸に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、競わず、争わず、もって大事をなすべし〉
もともと石倉は芸能界に入る前、行きつけの喫茶店が同じだったという理由で高倉と親しくなっている。役者志望ではあったが道筋が見つからない石倉に、東映の大部屋俳優を紹介したのが高倉である。
「その喫茶店のママも、健さんが亡くなったって大泣きしてたね。俺なんかが素人同然の時でも、健さんはいつでも身に余る言葉をかけてくれた」
石倉が東映の大部屋をやめたいと告げると、健さんは了解しつつ、役者としては「首まで泥沼につかる覚悟で続けろ」と檄を飛ばしている。
やがて、大スターの高倉健も東映と決別する日がやって来た。映画館のドアが閉まりきらないほどの熱狂を生んだ「任侠映画」のブームが終わると、冷遇されるようになった。
「もう鶴田浩二や高倉健の時代やない。東映は実録や。もう任侠映画は作らんで」
岡田茂社長(当時)の言葉に、高倉は退社を決意。ほぼ同時期に監督の専属契約を解除された佐藤純彌氏は高倉の心境を思いやる。
「もともと東映は京都が強くて、東京は『お前らを食わせてやっている』と見下されていた。そこに健さんが出てきたことは、東京の撮影所の大きな励みになった」
佐藤氏は高倉が東映の最後期に組んだ「新幹線大爆破」(75年)や、互いがフリーになっての第1作である「君よ憤怒の河を渉れ」(76年)、そして角川映画の大作である「野性の証明」(78年)が忘れがたい。
「どの映画でも、撮影の途中で20人ほどのスタッフを集めた食事会を開催する。あの気遣いは健さん特有のものだし、監督にダメ出しすることも一切なかった」
東日本大震災後の健さんは、山下達郎の「希望という名の光」を愛聴した。そこには、こんなフレーズがある。
〈たった一度だけの人生を、何度でも起き上がって〉
生涯を終えても、健さんのメッセージは男たちに常に響くはずだ──合掌