「武士は食わねど高楊枝」という言葉がある。武士は貧しい境遇にあっても貧しさを表に出さず、気位を高く持って生きるべし、という意味だ。武士は金銭を不浄のものと考えていたようだが、「世の中は銭」と公言し、財テクに励んだ武将もいる。戦国時代から江戸時代にかけて蒲生家、上杉家に使えた岡定俊、通称は左内だ。
永禄10年(1567年)、若狭・太良庄城(現・福井県小浜市)の城主・岡和泉守盛俊の子として生まれた左内は、織田信長が若狭を制圧後、守護になった丹羽長秀には仕えず、蒲生氏郷に150石で仕官した。この時、信長は大減税の最中で、年貢は四公六民。つまり、手取りは60石。現在の量に換算すると、36石しかなかった。一石を8万円と換算すると、年収はわずか288万円程度の武士だ。
そのため、暇を見つけてはわらじを編み、みすぼらしい姿で売り歩いて日銭を稼いでいた。その稼いだ金は使わずに壺の中に貯め込み、時々、壺を振っては薄笑いを浮かべていたという。「雨月物語」の一篇「貧福論」には、部屋中に金銭を敷き詰め、その上で昼寝するのを楽しみとした、との逸話さえある。
その才覚が味方し、トントン拍子に出世。氏郷が会津92万石の大大名になると、知行1万石を与えられるまでになった。だが氏郷の死後、蒲生家が没落し18万石に厳封されると、見切りをつけて上杉家120万石に再仕官。家老の直江兼続に4200石で召し抱えられている。
左内はただの守銭奴ではなかった。徳川家康が慶長5年(1600年)、上杉家に対して起こした会津征伐の際には永楽銭1万貫、今の金額にして約2億円を主君に献上。同僚にも貸し与えている。会津征伐後、上杉家が米沢に転封になった際には、その借財の証文を全て焼き払ったいう。
上杉家の転封後は、会津60万石の領主となった蒲生秀行に仕えた。慶長14年(1609年)頃には1万石で猪苗代城城代に任ぜられ、越後守と称した。その後、蒲生氏にはトータルで、黄金3万3000両という膨大な金額を献上している。死ぬ直前には他人に対する借用書を全て焼き捨て、借金を帳消しにしたというから、見事というしかない。
(道嶋慶)