ロクに勉強しなかったために、受験した医学部に全てスベッたエド山口が入ったのは、和光大学。ところが大学生になっても、もちろん勉強などすることなく、これ幸いとバンド活動に熱中していった。やがて成城大学に移ったものの、最終的には中退。見事に「ドラ息子」への道を邁進することになる。
昭和40年代の半ばくらいは、盛り場の大きなレストランなどには、どこもバンドが入って演奏していたような時代。だから、新人でバンドに入っても、カネをもらいながら修業ができた。さっそく高校時代の仲間とバンドを組んだエドは、あるプロダクションに仕事をもらい、入ったのが埼玉・朝霞の米軍キャンプにほど近いゴーゴークラブ。
ところが、そこを半月でクビになるわ、間に入っていたプロダクションが給料不払いだわ、散々な目にあって、「こりゃ自分たちで仕事見つけなきゃいかん」と痛感。
時あたかも「エレキブーム」の火が燃え上がり、「勝ち抜きエレキ合戦」(フジテレビ系)が大人気で、ブルー・コメッツ、スパイダース、ワイルドワンズなどのGS(グループサウンズ)の中心バンドたちがガンガン、ヒットを出し始める頃だ。
だが、エドはその流れに乗り切れないうちに、時代はさらに移り変わる。GSの勢いに翳りが出てくると、次は黒人音楽が台頭して、リズム&ブルースがもてはやされるようになってきた。
そんな中でエドは、弟のモト冬樹、それにモトの小学校からのクラスメイトだったグッチ裕三にも声をかけて、ソウルバンドを組む。バンド名は「ブルーエンジェル」だ。
最初のステージが、六本木にほど近い飯倉の「タートルクラブ」。外国人のバニーガールがいるような高級店で、高校を出たてのモトは、それを見て目が点になったとか。その後は新宿や横浜など、いろんな店を渡り歩いたものの、1年も経たずに解散してしまう。いったいどうしたというのか。
理由はバンマスであるエドと、モトやグッチとの「方向性の違い」だという。早くレコードデビューを果たしたかったエドに対し、モトたちは高校を出たばかりで、さほどデビューを急いではいかった。モトにとっては、例えば朝丘雪路の「雨がやんだら」という曲の中に「あなたのステテコ どこかにステテコ」なんて歌詞を挟むような、コミカルな要素を取り入れたエドのやり方が、どうも認められなかったこともあるらしい。
まだハイティーンのモトには「音楽は真面目にやりたい」気持ちがあったのかもしれない。これがのちにコミックバンド「ビジーフォー」で大当たりするのだから世の中、不思議なものだ。しかもモト自身によれば、
「普通、バンマスにこうしろ、と言われれば『はい』と率直に答えるのが当たり前だろ。でも相手がアニキとなったら、どうしても『そりゃ違うよ』になっちゃう。そういうことの積み重ねかな」
しかし、別にそれで2人の仲が険悪になったわけでもなく、のちに東京ドンバーズというバンドを組んでCDも出してるし、今でも家族ぐるみの付き合いは続いている。
結局、「おひとりさま」になったエドが始めたのは、やっぱり「弾き語り」。昭和50年頃、六本木や銀座などでやる弾き語りは、トップクラスになるといい外車に乗って高級マンションに住めるくらい稼げたという。エドもさっそく現金でカマロを買いに行き、ディーラーにビックリされたらしい。
エドが銀座の街角で、店を掛け持ちして稼ぎまくっていた、歌本を抱えたドレス姿の八代亜紀を見かけたのも、この頃だ。