曽根は自身を、高倉の「直系の後輩」と呼ぶ。京都に比べれば「添え物(併映扱い)」と呼ばれる映画が多かった東京の撮影所で、高倉は希望の星だった。
そして曽根は、2度も高倉に顔を立ててもらったと感謝する。
「東映祭りと称した旅があって、健さんや鶴田浩二さんを中心とした歌のショーをやるんだよ。忘れもしない大阪グランドホテルで、健さんが『曽根、お前、大阪だったな?』と聞いてきてね」
曽根が「はい」と答え、リハーサルの時から母親が来ていることを告げた。すると高倉は母親のもとへ駆け寄り「曽根にはお世話になってます」と頭を下げる。
「うちのお袋、席に座ったまま感激でヒザが震えとった。鶴田さんが悪いというわけじゃないが、そこの性格が2人は違っていたね」
2度目は曽根がプロデュース業に進出した96年のこと。息子の曽根英樹(現・悠多)を主演にしたVシネマを撮り、たまたま金沢で高倉に会う機会があった。
「息子にも名刺を渡して、何かあったらいつでも言って来いって励ましてくれる。それは、親として顔が立ちますもん」
尊敬する先輩と、善光寺の豆まきに2人で招かれたことも忘れられない。
そして曽根と同じく八名信夫もまた、早い段階から高倉に接している。もともと東映フライヤーズの投手だった八名は、59年に俳優に転向すると、180センチを超える体格を生かした。
「健さんとは100本以上は一緒にやったのかな。敵役は体が大きいほうが迫力あるし、それに俺は野球をやっていたから、主役にケガをさせるような動きの悪さは1回もなかった」
よく知られたエピソードだが、プレゼント魔の高倉から八名も高級ジャンパーをプレゼントされている。ところが、もらって間もなくにダメにした。殺人鬼を演じた映画で、警察に捕まる場面を上野駅でゲリラ撮影。八名を「ホンモノ」と思い込んだ乗客たちから袋叩きにされる。
「健さんからもらったジャンパーも袖から引きちぎられたよ。どうやって謝ろうかと思っていたら、その場面を『あれ、良かったよ』と褒めてくれたんだ」
それとは逆に、八名はデビューから10年以上もたって高倉に叱責された。悪役として名前が売れた頃、高倉は言った。
「もうちょっとギラギラしろよ! 東映に入って、1000円か2000円のギャラでやっていた時のほうがいい目をしてたぞ!」
さらに高倉は、敵役として相対した時の呼吸も八名に伝えた。
「相手を殺す前に怖がれ。殺すほうが怖いことを理解したら迫力が出るから」
八名にとって、本格的に「悪役」と取り組んだ契機である。そういえば、と八名は思った。邦画史に残る傑作の「飢餓海峡」(65年)に八名もヒモ男役で出演しているが、若手刑事役の高倉が内田叶夢監督にシゴかれている場面を見た。
「それまでサラリーマン物が多かった健さんが、あの映画で何か突き抜けた感じがしましたね」