曽根の目にも、八名の目にも、高倉は東映の仲間たちには胸襟を開いているように見えた。例えば東映の看板女優でもあった美空ひばりの誕生会となると、高倉は八名たち若手にハッパをかける。
「わしが盛り上げないとじゃあ。さあ、裸になって踊るぞ!」
決して器用ではない高倉が、場を率先して裸踊りに興じている。
また、江利チエミとの新婚時代は、八名のスポーツカーで自宅まで送り届けたこともある。上がっていけという声に遠慮して引き上げたら、翌日、「チエミに『送ってくれた人にお茶も出さないの!』と怒られたよ」と高倉がバツの悪そうな顔で話した。
そして70年1月21日、世田谷にあった夫妻の自宅が漏電のため全焼する。撮影は中止となり、八名も急いで焼け跡に駆けつけた。
「報道では全焼にも平然としていたとあったけど、あんな健さんは見たことがなかった。真冬の寒い日にカーディガン1枚で呆然と立ちすくんでいる。俺が着ていた厚手のアーミージャンパーを『先輩、寒いから』と言って肩にかけてあげるのが精一杯だったね」
後輩の誰もが高倉健に憧れながら、スクリーンに「生き様」まで映し出せる役者には到底なれないと思ってしまう‥‥。
高倉と同期に東映に入社し、ポスターデザインや惹句などの宣伝部門を担当した関根忠郎は、一度だけ怒鳴られたことがある。
「関根、これはまずいぞ!」
それは刷り上がったばかりの「昭和残侠伝 破れ傘」(72年)のポスターだった。映画では素足に雪駄だが、待ち時間に寒さしのぎで履いていた足袋がそのまま写り込んでいる。
「当時は東映の直営館と系列館を合わせたら全国に何百とあって、その分のポスターを作り直したら予算がオーバーしてしまう。もし、変な言い訳をしたら許さなかったでしょうけど、素直に謝ったことで了承してもらえました」
関根は先輩が作ってきた任侠映画の傑作コピーに憧れた。例えば、71年の正月映画「新網走番外地 吹雪のはぐれ狼」には──、
〈健サン見なけりゃ正月気分になれません〉
いかに高倉がドル箱スターであり、また客が劇場に足を運びたくなるかを狙った秀逸なコピーである。やがて関根が一本立ちして惹句を手掛けるようになると、71年公開の「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」で会心のコピーを描けた。
〈今が盛りの菊よりも、きれいに咲くぜ唐獅子牡丹!〉
一方で「山口組三代目」(73年)には、関係者から突き上げを食らうコピーを添えた。
〈あなたはどう思う!? この黒い組織を‥‥〉
こうした挫折と成長を重ねながら、高倉健の遺作に関わることができた。34年ぶりの惹句を見て、高倉は「いいね」と言った。それ以上に何もいらない最上級の評価であった──。